Webライターとして生きる

五条ダンのブログ。「楽しく書く」ための実践的方法論を研究する。

レトリックを身につけよう!(楽しいピクニック編)

レトリックが小手先のテクニックだと思われるのは、悲しい。レトリックは「書くこと」そのものである。レトリックを知れば、文章を書くのは楽しくなる。

はっきり言って、僕のような、ライターを本業としている者であっても、原稿を書くのは苦しい。とても苦しい。「あぁぁぁああ、うまく書けないよぉ!!」と頭を抱えてベッドの上をのたうち回るのは、日常茶飯事だ。

「俺って適性がないのかな……」と思い悩むことだってある。文章のセンス、切れ味、上を見れば果てしなく、自分のちっぽけさが惨めになってしまう。

それでも、僕は、良い文章が書けることを知っている。それは自分の文才を信じているからではなくて、偉大なる先人達が築き上げたレトリック(修辞技法)の素晴らしさを信じているからである。

自分の才能に自信が持てないのなら、レトリックの神を味方につけよう。きっと、僕たちの良き友となってくれるはずだ。

レトリックは使いこなすと楽しい「道具」

楽しいピクニック

今日は「ピクニック編」と題して、6つのレトリックをご紹介したい。どれも使いやすいものばかり。小説、ブログ、アフィリエイト(?)あらゆる場面で活用できるはず。

最初のうち、意図的にレトリックを使うのは、何だか気恥ずかしい感じがすると思う。その「恥ずかしさ」が大切。小説や文学といったものは僕に言わせれば「恥の昇華」に他ならない。恥ずかしくても大丈夫。黒歴史なポエムをいっぱい書いているうちに、文章はうまくなる。僕もがんばる。

例文:今日はいい天気なので、ピクニックに行きます。

(お題)レトリックを使って、上の文章をおもしろくしてみましょう。

「今日はいい天気なので、ピクニックに行きます。」まさに退屈しそうな文章の典型例だけれども、これをなんとか読ませるものに変身させたい。以下に回答例を示し、レトリックの紹介をしていこう。

1.情報待機――「謎」で読者を引っ張る技法

 今日、私がどこに行ったのか。あなたがそれを知れば、驚きに腰を抜かすに違いありません。朝起きて、何気なく窓を開けて、空を見上げたんです。澄み切った青い空に、一片の雲が浮かんでいました。雲は私に語りかけます。「さあ、ピクニックに出かけよう!」と。

情報待機は、出すべき情報を先送りにして、読者の気を引く技法だ。例えばミステリー小説では「誰がどうやって相手を殺したのか」という肝心要の情報を隠しておいて、読者を「謎」で引っ張る。

「あなたが成功する方法を教えます!」みたいな自己啓発書だって、肝心のノウハウ開示を徹底的に引き延ばす。

(自己啓発書と情報待機の例)
  • 冒頭――ああ、なんてこの本は素晴らしいのかしら。これを読んだら人生が変わるに違いないわ!(他者からのレコメンド文で期待を持たせる)
  • 第一章――作者がどのようにドン底から大富豪へと成り上がったか。(筆者の成功体験談で期待を持たせる)
  • 第二章――今までのやり方、一般に考えられている常識的な方法が、どれほど間違っているか。(不安を煽って、次の章への期待を持たせる)
  • 第三章――作者のノウハウを実践することによって得られる素晴らしいメリットの数々。(未来を想像させ、やはり次の章への期待を持たせる)
  • 第四章――ノウハウについて(ようやくここから本題が始まる)
  • あとがき――肝心のことが知りたかったらセミナーに参加しましょう!(オチ)

このような構成を取る自己啓発書もあるが、えげつない。情報待機では読者の「知りたい」という欲望を逆手に取って、どこまでもどこまでも引っ張ってゆく。

縦にやたらと長いセールスレターも、長々とエピソードを読まさせる構造だ。肝心の商品とその値段については、最後の最後に書いてある。

「わざわざ貴重な時間をつかって広告文を読んだのだから、これは買う価値のある商品なんだ」と思い込んでしまう心理(認知的不協和)が働き、読者はついつい書き手の目論見に乗せられてしまう。

ピクニックに行く文章の場合は「どこへ行ったか」「誰と行ったか」などの情報を隠して引っ張れば、原稿用紙5枚分くらいは読者の気が引けるだろうか。(なかなか厳しい)

情報待機

2.対照法――結びつけて「意味」をもたらす

 晴れやかな青空の下、どんよりとした心をそのままに、僕はどこへ向かうべきかを決めかねていた。時間はいくらでもある、はずなのに。シロナガスクジラよりも大きな雲がゆっくりと空を泳ぎ、ちっぽけな人間の僕があくせくと走り回らなきゃいけない。

 頭のなかで、二つの声が同時に響いた。

「ピクニックに行こうよ」「ハローワークに行かなきゃ」

対照法はその名の通り、物事を対照させながら話を展開していく手法。

ここでは

  • 晴れやか/どんより
  • 青空/心
  • シロナガスクジラよりも大きな雲/ちっぽけな人間
  • ゆっくり/あくせく
  • ピクニック/ハローワーク

と、反対の概念を結びつけて、比較させながら描写する。

本来「いい天気なので、ピクニックに行きます」の前半部分、つまり「天気の話」は余計で、削ったほうが良いのかもしれない。

ピクニックに行くからには「いい天気」であることは明白だ。書かなくても、読者は予測できる。「生憎の曇天で~」とでも断り書きのない限りは、晴れているに決まっている。分かりきっていることは、書かない方が潔い。

だからこそ「天気」の話を出す以上は、それそのものに何らかの情報的価値が欲しい。例文の対照法は、風景描写と心理描写とを結びつけることで「どうでもいい天気の話」に意味を持たせようとしている。

対照法

3.語順操作――乱して「リズム」をつくる

 走っていた。行かなければならない。今日こそは。絶対に。一天鏡の如く晴れ渡る、空の明かりが告げる。急げ。間に合わなくなるぞ。行くのだ、ピクニックへ。私は必ず今日中に、まだ太陽のあるうちに。

語順をめちゃくちゃにして、読者をびっくりさせてやろうってレトリック。小学校の国語で習う「倒置法」も語順操作の一種だといえる。

文法的には正しくなくても構わない。文体にリズムやメリハリをつけたり、異常な心境を表したいときに、語順操作は役に立つ。

語順操作

4.皮肉法――褒めて貶し、笑って泣く

 康夫が精算を済ませてラブホテルを出ると、外はバケツをひっくり返したような雨だった。愛人を駅まで見送って、その姿が見えなくなるのを確認する。康夫は雨傘に隠れて、ほっと口元を綻ばせた。

 アレは、いい女だった。

「……あなた」

 背後から誰かが呼ぶ。まさか、と思って振り返る。

 目の前にいたのは、妻、信子であった。

「お、おまえ……ど、どうしてここに……」

「いいお天気だったので、ピクニックに行ってきましたのよ」

 信子は雨に全身を濡らしたまま、抑揚のない声で答えた。

皮肉法、または反語法。

ちょっと例文が相応しい例かどうかは自信がない。皮肉法では「言っていること」と「思っていること」が正反対となる。読者は暗黙のうちに、言葉の真意を悟ることとなる。

皮肉法は侮れない。読者の感情を揺さぶる強力なレトリックでありながら、文体にはユーモアをもたらす。例えば、はてなのトップブロガーにも、皮肉法を巧みに操る文彩のエキスパートの方々がたくさんいる。

「美味しそうな料理だね」「あら、お上手ですわね」「ユニークで独創的なアイデアだ!」どのような褒め言葉も皮肉法を前にすれば、正反対の意味となってしまう。恐ろしい恐ろしい。

皮肉法

5.誇張法――オーバーリアクションによるユーモア

 嗚呼、なんて素晴らしい天気なのだろう。肌を優しく包むように暖かい。陽の光を浴びるだけで、僕は今にも目が眩んで昇天してしまいそうだった。ガラス越しの光でこれほど気持ちいいのだ。嗚呼、外へ出たい。

 二つの脚がムズムズと出発のときを待ちわびている。どこでも良いから、行くのだ。エベレストの頂上でも、ブダペストの王宮でも構わない。心が外へ飛び出たがっている。

「ピクニックだ!!!」

 僕は絶叫して、病室のドアを蹴飛ばした。この閉塞したセカイをぶっ壊してしまえ。

誇張法はとにかく、大げさに、オーバーリアクションに表現することでユーモアを誘う文彩だ。

慣用句にも誇張法を用いたものが多い。「猫の額ほどの庭」「目に入れても痛くない可愛さ」「ラクダを針の穴に通すくらい難しい」「嘘ついたら針千本飲ます」など。

 小説における誇張法の実例を示したい。

 それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人じみたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。

(引用:夢野久作『ドグラ・マグラ』青空文庫)

 さすが夢野久作……。上記の文章は、化物を描写しているのではない。異様ではあるけれど『人物』のようすを描いている。「巨人」「馬のように長い」「瀬戸物のように生白い」「クジラのような眼」すべて、誇張法となっている。

 読めば分かるとおり、誇張法は明喩や暗喩を伴うものが多い。

 ドグラ・マグラは青空文庫で無料で読めるので、ぜひ読もう!(めっちゃ面白い)

誇張法

6.列挙法――執拗に並べ立てて描写する

 ピクニックに行こう。透明な空、ゾウの形をした雲、そよ吹く風、アブラゼミの鳴き声、向日葵の香り、固く結ばれた靴の紐、凍ったペットボトル、あらゆる世界のすべてが私を肯定し、足は大地を蹴り、腕はぶんぶんと振られ、唇は陽気な歌を口ずさむ。

 大自然に導かれ、誘われるままに、私はピクニックへと向かった。

列挙法では次から次へと言葉を並べ立て、圧倒する。必然的に描写はしつこくなるのだけれど、そこを武器とする。

そう、レトリックは僕たちにとって頼もしい武器であり、使いこなすと楽しい道具であり、ときとして他者を救う薬ともなれば、他者を苦しめる毒ともなる。繊細で、大胆で、我が儘で、優しくて、強固で、不安定で、扱いづらいことこの上ないけれど、その力に溺れてしまわずに、書くことを愛し続けるのであれば、これほどに良き友はいないのだから、僕たちはレトリックをもっと好きになったっていいのである。

……みたいな文章が、列挙法の例となる。じつは列挙の文彩だけでも10種類近くの分類があり、レトリック沼は深みにハマると抜け出せなくなる。

列挙法

本格的にレトリックを学びたい人は

がおすすめ。(入門→発展)の並び順。

(終わり)

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黄金司を育てよう(サボテンかわいい!)

黄金司(こがねつかさ)はマミラリア属のサボテンで、育てやすくて増やしやすい。100円均一のダイソーでも買える。気軽に栽培でき、コストもほとんどかからない。「ちょっとサボテン育ててみたいな」という人にぴったりな品種だ。

黄金司の魅力

黄金司

黄金司の魅力は成長スピードが早くて変化に富むところ。僕も買った当初は(サボテンなんて姿変わらんし見ていて飽きるやろな……)と思っていたのだが、良い意味で予想を裏切られた。

黄金司は親株から子株がニョキニョキと生えてきて、群生のようになって育つ。ポケモンの「ディグダ」が「ダグトリオ」に進化するかのような面白みが味わえる。上の写真は買った当初のもの。半年もすると下の写真のように驚くべく成長を遂げる。

黄金司2

植木鉢を大きくしたので、今ひとつサボテンの成長が分かりづらいが背丈がかなり伸びている。サボテンの赤ちゃんがポコポコと根本から頭を出し、子株は親株を越すほどに成長している。

ここまで分かりやすく変化してくれると、サボテンもじつに育て甲斐があり、愛おしい。

1年育てた黄金司。なんかめっちゃ増えてる。※1枚目の写真と同一サボテンです。

かわいい!(確信

黄金司(こがねつかさ)の育て方

サボテンはなんだかんだいって、栽培難易度が高いらしい。とくに水やりのさじ加減が難しい。サボテンを枯らす原因の筆頭が「水の与え過ぎ」にある。どの園芸書を読んでも「水のやりすぎ注意」といったことが書かれている。

一方で「サボテンは思っているより水を必要とする」なんて意見もあり、どうすれば良いのか頭を抱えてしまう。

我が家の場合は「夏、冬のあいだは月1回」「春、秋のあいだは月2回」の頻度で水やりをしている。結局は、土のようすを目で見て判断するしかない。竹串で土中まで刺してみて、土が完全に乾いていたら水のやりどき。

水を与えるときは出し惜しみせず、鉢から溢れ出るくらいの水をたっぷりとあげる。土全体に水を行き渡らせる感じで、一度にドーン!とあげてしまう。サボテンに限らず、多くの園芸植物において、これが水やりの基本。

土はサボテン専用土にお任せ

土や肥料は、調合するのが面倒くさい。ホームセンターに売っている肥料入りのサボテン専用土にお任せで良いと思う。僕の場合は、1年に1回植え替えをする程度で、とくに追肥はしていない。

植え替えは春か秋に。素手で触ると棘が痛いので、厚手の手袋を用意しておきたい。キッチンペーパーで包んでやっても大丈夫。

植え替えのときに、根を数センチ切った方が元気になるらしい。ただ、うちではやっていなかった。植え替えのあとはすぐに水をやらずに、1週間ほど直射日光の当たらない場所に置いておく。

そして1週間後に、たっぷりと水やりする。

とにかく「土が完全に乾くまで待って、たっぷり水やり」を心がけていれば、そうそう枯れない。100円で買った命とはいえ、もう大切な家族同然だ。長生きさせたい。

ポインセチア、シクラメン、コニファーにプリムラ・ポリアンサ……etc 小学生の頃からいろいろ育てるのが大好きだったけれども、枯らしたときは本当に悲しかった。

園芸植物はやっぱり名前をつけると、愛着が湧く。僕はかつて、ポインセチアに「ポチ」と名前をつけて、イヌのように可愛がっていた。(ポチは挿し木に成功して、1株から14株にまで増やした。いくつかは、遠い親戚の家々で今でも生き延びている)

黄金司につけた名前は、もちろんツカサ。毎日サボテンに話しかけて「聞いてアロエリーナ♪ ちょっと言いにくいんだけど♪」のCMのような感じで、楽しく一緒に過ごしている。

もし黄金司を育てる際は、他のサイトの「サボテン栽培法」や市販の書籍などもぜひ参照されたし。サボテン栽培だけで1冊の分厚い本が書けるほどに、サボテンの世界は奥深い。

Welcome to the SABOTEN world ! (みんなで行こう、サボテンの世界へ!)

(終わり)

ポケモンGOと孵化する格安スマホ

 ポケモンGOには「卵を孵化させる」という機能がある。2km、5km、10kmと、歩いた距離に応じて生まれるポケモン(のレア度)も変わってくるらしい。僕もさっそくこの卵ちゃんを孵化させようと、ポケGOを起動させて六甲山を歩きまわる。

 スマホをスリープすると、孵化に必要な移動距離がカウントされない。仕方なくスリープ機能をOFFにして、画面つけっぱで登山することにする。六甲山はウリムーとかがいっぱいいそうな雰囲気があるが、あれは新ポケだったか。山から下りてきたイノシシが、チューリップをよく食い荒らすのだ。

 さておきそうして歩いていると、だんだんとスマートフォンが温かくなってくる。いや、温かいというレベルを通り越して、ホッカイロのようにホカホカしてくる。カバーを外して直に触れてみると「熱ッ!」と火傷してしまいそうなくらい。

 僕はすっかり感心してしまって(なるほど……こういう原理で卵を温めて、孵化させるわけか……)と納得。最近のゲームは凝っている。音や振動でリアリティを与えるだけでなく、ARで現実と空想とを繋げてしまう。それだけでなく「温度」までもリアリティを追究するとは。

 灼熱を帯びるスマホを片手に、僕は心配する。ポケモンが孵化するまえに、茹で卵になったらどうしよう。

 六甲山の麓にある公園でひと休みする。汗を滝のように流し頭をクラクラとさせてくつろいでいると、僕の親友である江安恒一(えやすこういち)が「やあ」と呆れた笑みを浮かべて、隣のベンチに座った。彼はいつでも唐突にあらわれる。

「焼身自殺をはかる吸血鬼ごっこでないとすれば、キミはいったい何をしているんだい」

 江安くんが皮肉口調なのはいつものこと。平常運転だ。大学時代からの付き合いで、彼がどんなに悪いジョークを言ったとしても僕は気を許している。

「なにって、ポケモンGOだよ。今、卵を孵化させているところなんだ」

 スマートフォンは熱くなりすぎていて、持つのも辛いくらいだった。頑張る。こんなことなら軍手を用意しておけばよかった。ハリポタのハグリッドも、ドラゴンを孵化させるときに手袋的な何かを装着していた。あんな感じのでハフハフしたい。

「へぇ……。意外とミーハーなんだね。で、なんのポケモンが生まれるんだい?」

「何ってそりゃあ、生まれてみるまではわからないよ。たぶん、中に入っているのは炎タイプのヒトカゲかブーバーだと思う。こんなに熱いってことは」

 生まれてみるまではわからない。

 生まれてみるまでは、わからない。

 我ながら良い言葉だと思った。小説原稿だって、生まれてみるまでは傑作なのか、駄作なのか、判断のしようがない。未完の原稿は、まだ生まれていない卵と同じなんだ。孵化させるのに熱が必要なのと同じように、原稿を完結させるのにも、熱がいる。

 ツンツン、と江安くんが、スマホの画面をつつく。や、やめろ。卵が割れちゃうじゃないか。

 彼はしかし首を横に振って、アイロニカルな表情を浮かべた。

「これは熱暴走だよ。やめた方がいい。多分、ポケモンが生まれるより先にスマホがぶっ壊れる」

「な、なんだって。スマートフォンが割れて中からポケモンが出てくるだって!?」

 錯乱。僕は卵を孵化させるつもりが、誤ってスマホを孵化させていたようだ。

 江安くんは僕の手から無理やりスマホを取り上げる。液晶に指を走らせて、何やら調べている。

「なるほど。エイサーのLiquid Z530か。格安スマホのひとつだね。ジャイロセンサーが搭載されていないから、アプリのバッテリーセーバーモードが効かないんだ。にしても、ここまで熱くなるのは危ない」

 そう言ってスマホの電源を切ってしまった。僕の手に返してくれる。

 電源を切っても、スマホはしばらくの間ホカホカ石焼き芋状態だった。ポケGOアプリに問題があるのか、格安スマホに問題があるのか、両方なのかもしれないけれど。問題といえば今年の夏の暑さこそ問題であった。

「なんてことだ。僕の格安スマホでは、卵の孵化に耐えられないのか……。こうなったらiPhone8を買うしかないのか……そう、iPhoneなら!!」

「いや、おとなしく秋まで待つといいよ。少なくとも真夏はポケモンの産卵シーズンじゃない」

 「そうか、秋まで、か……」

 その頃までに、僕の心のなかの「熱」が残っていればいいけど。あと某所に連載している未完の小説を完結させなきゃなぁ……。

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 夜。クーラーのよく効いた部屋でポケモンGOを起動させると、ズバットが次から次へと湧いてきて「わあい」と思った。モンスターボールがなかなか当たらず、運動会の玉入れを思い出す。あるいはズバットは、ドッジボールで避けるのだけがうまかった当時の僕によく似ている。

 ズバットをゲットしてポケモン図鑑に登録する頃には、手持ちのモンスターボールをほとんど使い切ってしまった。

 遠くから猫が「ニャオ」「ニャオ」と鳴く声が聞こえる。

 ポケモンマスターへの道は遠いな……。かつてゲームボーイカラーで、ポケモンを遊んだ日々。あの頃に戻りたい。僕はその温かさを確かめるように、自分の左胸にそっと拳をあてた。

 

(終わり)

日記を300万文字書いたけれども人生は変わらなかった話

2004年1月1日『第一章――初まり――カウントダウンがはじまった。3…2…1、お寺の鐘がなり僕は、窓を開けた。さっきまで曇ってたのに月が顔を出した。僕はこの日初めて、天体望遠鏡で月を見た。初めてこんなに美しいものをみた。』

僕が小学6年生(12歳)のときに書き始めた日記の序文であり、それから12年間、ずっと日記を書き続けている。執筆文字数は、電子化をした2010年以降の分だけでも245万文字に達する。アナログで書いていた分も合わせると、日記の総執筆文字数は300万文字を優に超える

「日記をつけると人生が変わります!」と主張する自己啓発書を読んだ。子供の頃から歯磨きの習慣のように書き続けてきた身としては、まったく実感がない。日記のおかげで救われたとか、生き方が好転したとか、そのような効果は僕にはなかった。

むしろ「あのときの僕はなんて馬鹿だったんだ!!!」みたいな後悔の念を呼び起こす作用の方が、日記には多い。

だけど、日記は楽しい。

読み返すのが楽しい。

そこら辺のエンターテインメント小説よりも、自分の日記のほうが遥かに面白いと思うのは当然のことで、なぜならそれは僕の物語であり、僕自身のことが書かれているのだから、面白くないはずがないのだ。自分が主人公なんだから!

日記は人生を変えない。けれど、良い娯楽にはなる。

「人生をもっと良くしなきゃ!」なんてハードルの高い目標を立てなければ、日記ほど長続きして楽しい趣味はない。というわけで、日記のススメ。

日記はパソコンのメモ帳でOK「検索」できた方が面白い

読み返すときの利便性を考えると、日記はパソコンの「メモ帳」に書いていくのが最強である。テキストデータだと、日付けや文字列での検索がすぐにできる。

ある日セブンイレブンに立ち寄ったとき、レジでnanacoカード出した。ナナコ(キリン)の、のほほんとした顔を見て「そういえば最近、リアルでキリン見てねぇな……。最後に僕がキリンを見たのは、いつの日だったか……」と疑問を抱く。

そんなときこそ、日記の出番だ。

僕はスマートフォンをポケットから取り出して、Kindleアプリを立ち上げる。Kindleのパーソナルドキュメントに「日記.txt」が保存されているので、ファイルを開けて『キリン』で検索をかける。

2013年04月08日(月)晴れ

『就職活動。◯◯社のグループディスカッションに参加する。議題は「動物園の動物は幸せか否か」だった。僕は《動物園》が《企業》のメタファーであると考え、動物園の動物は幸せであるという方向に話を持って行こうとする。ところが《不幸派》の意見が強く、ひとりが「管理されるのは可哀想だ」と言い出したあたりから場には不穏な空気が立ち込めていた。僕は混乱して、動物園に行ったらキリンもゾウも笑った顔をしていた、と意味不明なことを口走ってしまったが……(中略)……作戦は失敗だった。こんなことなら進行役に立候補しておくべきだった。』

あ、これではないや……。今度こそ……。

2012年10月05日(金)晴れ

『フォトコンテストの写真を撮るため、天王寺動物園へ。キリンやカバなどを撮る。笑ったワニが可愛い。ワニがこれほどまでに可愛い生き物だとは知らなかった。帰りに、カップルの男女二人に写真撮影を頼まれる。僕はカメラを引き受けて、ワニのように笑った。』

そうかー、最後に動物園に行ってキリンを見たのは、もう4年も前のことなのかー。と感慨に耽る。

ネットサーフィンのごとく「日記サーフィン」をしていると、ついつい読み耽ってしまい、時間が過ぎていく。そういう時間が好きだ。

アナログももちろん良いものだ……。

デジタルのテキストデータで日記を保存すると、バックアップが取り放題だ。txtファイルを放り込めば、Kindleやスマホでも読める。検索機能だって、デジタル日記に敵うものはない。(なにせ、2010年から2016年までのすべてのデータがひとつのファイルに入っているのである。年を跨いでの検索なんてお手の物)

ファイルサイズがメガバイトを超えると、デフォルトの「メモ帳」だと心許ない。僕はテキスト編集は「サクラエディタ」を愛用している。

 

しかし、紙とペンで記録するアナログの日記も、なかなか捨てがたい

僕は2004年から2009年までは紙と鉛筆で日記をつけていて、日記にはイラストもよく描いていた。新聞の切り抜きを貼ったり、テレビ欄を貼り付けたり、時間割表を貼ったり、右下にパラパラ漫画を描いたりと、アナログ日記ならではの楽しみ方をしていた。

ふとページを開けたら、何処ぞで拾ったカラスの羽がセロハンテープで貼り付けてあって、ぎょっとした。さすがにデジタルでは真似できまい。

今となっては便利なデジタルからアナログに戻すつもりはないけれども、手書き時代の日記も良かったなぁ……と、今読み返してしみじみと思う。朝顔の観察絵日記なんかも見つかって、本当に懐かしい。

 

一方でデジタルは「追記」を自由に挿し込めるメリットが大きい。たまに僕は『未来の自分へ』という手紙を日記中に仕込んでいる。そして何年か経ったのち、返答を(2016/07/09:追記)といった感じで書き入れる。

さらにその追記が「過去のもの」となった時点で改めて読み返すと、複数の時系列の《自分》を俯瞰できて、大層面白い。まるでタイムトラベラーになったような気持ちになれる。

夢日記が見せる明晰夢

高校3年生から大学2年生くらいにかけては、現実の日記と合わせて「夢日記」をつけていた。夢日記をつけると、夢が日に日に鮮明になってゆく。夢を自在にコントロールできる「明晰夢」や、現実世界のような空間を遊び回れる「体外離脱」ができるようになる。

明晰夢も体外離脱も、どちらも夢の一種に過ぎないのだけれど、そのオカルト的な神秘体験は凄まじいショックと中毒性を持ち、僕も一時期は現実を疎かにして夢の世界に溺れ浸っていた。

さきほどの《キリン》で検索をかけると、夢日記のほうもヒットする。

2013年06月29日(土)晴れ【夢日記】

※ホラー注意

『動物園のなか。ライオンの子供があくびをしている。ワニたちが大喧嘩をしている。失恋したキリンが神獣となって檻を抜けだして、人々をパニックにさせる。雷鳴。

僕は、動物園内の皮製品のショップを見ている。(死んだ動物の皮が剥がれて売られている)こんなことをするからキリンが怒るのだと僕は必死になって訴える。

刃物を研ぐ職人さんが、笑って昆虫標本を見せる。蝶が串刺しにされている。

バス停にいると、眼鏡をかけた男の人から声をかけられる。最寄りの駅への行き方を訪ねられたが、僕にもわからなかった。

一緒に歩いていると、男性が「もしかしてTwitterされてます?」と聞いた。私は、笑みを浮かべながら「えっ、誰のことですかねぇ。◯◯さん」と返す。※仲の良いフォロワーさんの名前』

……というふうに、フロイトやユングに見せたら何か分かるかもしれないが、僕には意味不明だ。ここまで支離滅裂だと小説のネタとするのも難しく、シュルレアリスム文学の可能性はあるが……あまり生産的とも思えぬので夢日記は今ではやめてしまった。

夢日記をつけていた頃は、けっこう精神不安定な時期で(それが夢日記の弊害とは限らぬが)とにかく夢日記は精神をそれなりに消耗する。

なので手放しには、夢日記はお勧めできない。

短歌を書こう!

日記を読み返していると、短歌やポエムもたくさん見つかる。そのほとんどが黒歴史だが、後で読み返すとクスッとなるものも多い。

『泣く君の笑う姿が見たいから 僕は恋路の橋渡し役』(2012年10月20日)

『明日でも変わらず僕は生きている 夢と希望は自己愛と共に』(2012年10月21日)

『価値観を作って壊して貼りあわせ破って繋げて明日も生きる』(2012年10月23日)

『闇惑い因果で巡り逢う君と 中二病でも恋がしたいと』(2012年10月30日)

ってクスッとじゃなかった……な、なんたる黒歴史……!!!

日記は役に立たないけれど、面白い

ここまで読まれた方は「ああ、たしかに日記ってあんまり人生には役立ちそうではないな」という感じを掴みとってくれたかもしれない。少なくとも僕が12年間で300万文字を書いた実感で言うと、日記は人生に役立つものではない。

たぶん、日記を書く時間を試験勉強にでもあてた方が、人生を変える力は大きい。

それでも、日記を書くのは楽しいし。日記を読み返すのは面白い。

それで良いんじゃないかと思う。

見返りはいらない。

自分専用の娯楽小説を書こう。自分のためだけに。

読者は自分ひとり。僕が太宰治のような文豪にならない限りは、世に公開されることはないだろう。

そういう物語がひとつやふたつあっても、良い。

(了)

僕がデジハリ大阪校に半年間通学をしてWebデザインを勉強した話

デジタルハリウッドの口コミを探してみると「辛辣な批判」や「悪評」が多く見つかる。これらすべてが嘘とは言わないが、ネットに出ている情報は偏り過ぎではないかと思う。

ここでは僕が実際に50万円を支払って、半年間デジハリ大阪校に通学してWebデザインを学んで得られた所見を書いていきたい。

僕は現在、Webデザイナーではない。結論から述べると、Webデザイナーにはならなかった。

Webデザイナー専攻フリーランスパックを受講した経緯

デジハリ公式サイト(http://school.dhw.co.jp/course/web/index.html)を見てもらえば分かるとおり、このコースは48万円かかる。神戸から大阪へ通う電車賃を含めると、費用は50万円を超える。

半年で50万円だから、大学の授業料並みだ。決して安い買い物ではない。

僕は当時、フリーランスでWebライターをやっていて(今もやってるんだけれども)あまり稼げていると言える状態ではなかった。なのでWebライターを廃業して、Webデザイナーに転身しようかなぁ……と考えていた。

それでデジハリ大阪校のスクール説明会に参加をして(説明会、といっても私ひとりだけれども)ブースでデジハリのカウンセラーさんの話を聞くうちに、気分が乗ってきた。その場で、即契約をした。

衝動買い、といえばそのとおりなのだけれど、当時はそれだけ心理的に切迫した状態だった。なにせWebライターでまったく稼げていなくて、未来が視えなかったのだ。

50万円も払う価値はあるの? 独学で十分では?

通学スクール反対派の意見として、必ず出てくるのが「独学で十分」という言葉。これは、そのとおりだと思う。デジハリに通学して、マンツーマン指導・ライブ授業・卒業制作などいろいろやったけれども、そこで得られる知識や技術は、すべて独学でも得られるものだった。

デジハリのカリキュラムは、Illustrator,Photoshop,Dreamweaverの基本的な操作を覚えるのが最初の1~2ヶ月目にやることで、ある意味で初学者には優しい仕様となっている。

要領の良い人であれば、それはもちろん「市販の手引書」を使ったほうが、圧倒的に早く学習が進む。とくにデジハリの講義動画は、ソフトの初歩的な操作ガイドに多くの時間を割いている。

しかし「独学で十分」というのは、Webデザインに限らずあらゆる分野のスキル習得に言えることで、司法書士を目指すにせよ小説家を目指すにせよ漫画家を目指すにせよ、独学で得られない知識はない。

独学で躓く人をサポートするのが学校の役割」なのであるから、独学で十分だという批判は、ピントがズレている。

僕の場合で言えば、

  • marginとpaddingの使い分け
  • floatとpositionの使い分け
  • レスポンシブデザインの作り方
  • Photoshopでデザインをやって、Dreamweaverでコーディングをする流れ
  • バナーやロゴの作り方
  • Photoshopで写真を合成する

などは、独学ではきっと躓いていたと思う。だからその躓きポイントを乗り越えるために、スクールを利用した意義はあった。

逆説的に、上記に列挙したことが独学でできてしまう人は、50万円を払ってまでスクールに通う必要はない。繰り返すけれども、スクールはあくまで「独学でうまくいかない人」を支援する場である。

通学しないと得られない体験

現役のWebデザイナーさんとお話できる!というのはたしかに、通学をしないと得られない素晴らしい体験だと思う。講師のWebデザイナーさんは、生徒に甘い話はしない。いかにこの業界が過酷であるのか、かつて自分が務めていたWebデザイン事務所がどれだけブラックな環境だったのか、リアルで生々しい話をしてくれる。

それは、本気でWebデザイナーを目指す人にとっては、気の引き締まる有用な話であることは間違いない。

「駄目だし」はいっぱいされる

デジハリのWebデザイナー専攻クラスを卒業するには、いくつかの課題を合格しなければならない。

  • ロゴ制作
  • バナー制作
  • 名刺制作
  • モックアップ制作
  • Webサイトのコーディング

で、この課題をひとりでこなして、Webデザイナーの先生にチェックしてもらうのだけれど、これがとても厳しい。いわゆる「駄目出し」はどんどん容赦無くされる。僕なんか駄目出しをされまくって、最後は涙目になっていた。

僕はバナー制作がとくに苦手で、なかなか合格しなかった。夜9時まで教室に残って、Photoshopとにらめっこしていた。(ちなみにデジハリ大阪校の教室は、24時間自習に使えるのだ。ソファーで仮眠を取って徹夜で頑張る人もいた)

修正版を10案くらい作っても、満足の行くものは出来上がらなかった。このとき「俺はデザイン方面は無理やな……」と素直に思った。

Webデザインの課題を提出したとき、先生はひと目見ただけで「あ、五条くん、ここ1pxズレてるね」と指摘した。言われて画面をよく見たが、どこが1pxズレているのか分からない。

自分の席のPCで、Photoshopを使って測ってみたら、本当に1pxだけ下方にズレていた。プロは半端ないなと思った。プロは、すごい。自分がいかにデザインに対して甘い考えを持っていたか、先生の話を聞くたびにひしひしと感じた。

こうした体験は通学ならではのものだと思う。「どんどん駄目出しをされて、成長したい!」という向上心の高い方は、通学をして得られることも多いはず。

ちなみにこのブログのロゴマーク(上の画像)はAdobe Illustratorで制作をした。鉛筆と万年筆のモチーフを組み合わせた我ながら渾身のデザインだが、これもきっと先生に見せたらめっちゃ駄目出しされると思う。

就職には繋がるの?

いきなりの正社員採用にこだわらなければ、Webデザイナーとしての就職は十分可能だと感じた。僕は卒業制作で作ったサイトが評価されて「クリエイターズ・オーディション」という、企業と学生のマッチングイベントに出場することができた。(デジハリ大阪校で開催される)

そのときに、何社かから「うちで働きませんか」とオファーを受けた。クリエイターズ・オーディションでは、5分ほどのプレゼン発表をして、そのあとに企業の人たちとの名刺交換会がある。

参加メンバー同士で仲良くもなれるし、さまざまな企業の人と名刺交換をすることで人脈獲得にも繋がる。大企業、有名企業の採用担当者さんもけっこう来ていて、会社訪問のお誘いをいただいた。一方で、会社を設立したばかりの社長さんからは、起業話を聞くことができた。

勿体無い話、僕はオファーはすべて断ったのだけれども、もし受けていれば(正社員とは限らないが)Webデザイナーにはなれていただろう。ただ、オファーを受けたうちの1社は、虫眼鏡スパムをやっている悪質なSEO会社だった。企業分析は怠らないようにしよう。

フリーランスにはなれるの?

いきなりフリーランスとして独立するのは、難しい。僕はデジハリ卒業後、ランサーズのデザインコンペ(ロゴ制作やバナー制作)で力試しをしていたのだけれど、一度も当選できなかった。

デジハリ授業料の元を取るどころか、モリサワフォントとAdobe CCの年間契約料の元さえ取れなかった。もちろん個人の努力次第であり、僕の場合はデザイン方面の仕事は向かなかった、という話に過ぎない。

まぁ……フリーランスになることの厳しさを考えると、デジハリが「未経験から最短3ヵ月でフリーランスデビュー!」みたいな安易な広告を打って受講生を増やすのは、いかがなものかと思う。( ↓ こんなの)

ちなみに、Webライターの仕事の繋がりで、クライアントさんからWebデザイン・コーディング・SEO対策の案件を任されることはよくある。最近はWordPressのトラブルを解決してほしい、的な依頼もよくいただく。記事のマークアップ納品も増えてきた。

Webデザインの知識があれば、Webライターとして対応できる業務の幅は広がる

ただ、個人的には「ライターはライティングに特化した方が、収益に繋がる」と考えている。ぶっちゃけライターの自分がデザイン業務を引き受けても(時間がかかる上に)大きな儲けにならない。それなら得意分野に集中した方が、得だ。「比較優位」「選択と集中」を意識したい。

デジハリ卒業したのにWebデザイナーにならなかった理由

ならなかった、と言うべきか、なれなかった、と言うべきか。

とにかく良くも悪くも、デジハリで現役Webデザイナーの先生方と話をするうちに、自分の将来の目標が固まってきた。つまり自分の適性を正しく知り「私はデザインよりもライティングの方がやりたいんだ」という願望をはっきりと認識できた。

だから「Webライターになる」という指針が明確に決まったのは、デジハリのおかげであるし、感謝している。

もしもWebデザインという仕事に淡い幻想を抱いていたままで、なおかつ「俺にはデザインセンスがあるぜ!!」と思い込んでいたままだったなら、僕のキャリア設計は今でも揺らいでいただろう。

まとめ

デジハリなぜか悪評多いけれども、卒業制作なんかはみんな楽しく(向上心を持って)やっていたし、僕も良い刺激となった。

ただ課題はけっこう多いので、フルタイムの仕事がある人は、通学は厳しいと感じる。(事実、途中で時間が取れずに脱落していく人が多い)

専門系のスクールは、金はかかるけれども行けばそれなりに楽しいところで、僕もお金を貯めて暇ができたら今度は「漫画・イラスト科」のある学校にでも通いたいなぁ……と思っている。イラストなんて、それこそ独学でやれ!と思うかもしれない。でも、独学ではモチベーションが続かないからこそのスクールなのだ。

残念ながら「授業料の元を取る」という意味では、僕は失敗している。

現在の収入はほとんどがライティングによるもので、デジハリでせっかく学んだデザイン知識はあまり役立てていない。それでも「趣味サイトの運営」という素敵な趣味ができた。

デジハリ大阪校に半年間通学をして、Webデザインを勉強した。少なくとも、後悔はしていない。

以上、通学を考えている人の参考となれば幸いです。

(了)

ライターのための「ポモドーロ・テクニック」時間術(我流アレンジ)

フリーランスでWebライターをしていて、恐ろしいことが今年の3月に起こった。月初めに「〆切はまだ先やし大丈夫やろ……」とアニメを見たり漫画を読んだりして自堕落に過ごしていたら、いつの間にか納期が1週間後に迫っていたのだ。

おっ、これはちょっとヤバイかもな、と思ってスケジュール手帳と電卓を片手に計算をしたら「1日に2万文字を書かなければ納期に間に合わない」というエジソンもびっくりの驚愕の事実が判明した。

なんて自己管理のなってない奴だ。フリーランス失格だぜ。という言葉はもちろん、私の後頭部に深く突き刺さる。

そんな、窮地に追いやられた私を救ったのが

ポモドーロ・テクニック!!!

こんにちでは比較的ポピュラーな仕事術&時間術として知られている。ポモドーロ(Pomodori)はイタリア語でトマトの意。パスタを作るときに使う25分のキッチンタイマーを用いることから命名された。

ポモドーロ・テクニックは、1980年代後半にFrancesco Cirillo氏によって開発された。Cirillo氏はベルリンにコンサルティング会社を立ち上げており、ポモドーロ・テクニックの書籍やタイマーを販売している。

ライターのための「ポモドーロ・テクニック」我流アレンジ版

ポモドーロ・テクニックの正式なやり方については、調べたらいくらでも見つかるだろうし私がN番煎じで説明するまでもないだろう。

ここでは、私が原稿執筆のために仕事に取り入れている、我流アレンジ版のポモドーロ・テクニックをご紹介したい。

準備するもの

準備するものは以下の3つのみ。

  1. ノート(もしくは紙)
  2. 赤と黒のボールペン
  3. カウントダウンのできるストップウォッチ(もしくはスマホアプリ)

何かを買い揃える必要は一切なく、身近にある簡単な筆記用具とストップウォッチを用意すれば大丈夫。

商魂たくましく宣伝しておくと、私が愛用しているのは以下のストップウォッチ。


セイコー ALBA PICCO MULTITIMER(Amazon)

肝心のストップウォッチ機能はほとんど使っていないが、カウントダウンタイマーが便利で気に入っている。「ヤバイッ!! 納期まであと8時間しかない!!!」というときにも、8時間タイマーを設定しておけば刻一刻と迫る〆切を教えてくれる。

そしてカウントダウンがゼロになったとき、無情なアラーム音が室内に響き渡る。(消音設定もできます)

ストップウォッチでなくても、スマホアプリのカウントダウンタイマーを使えばまったく問題ない。

ルール(やり方)

ポモドーロ・テクニックのルールは至ってシンプルで「30分作業に集中して、休憩。また30分作業に集中して、休憩」をひたすら繰り返す。ウルトラマンが3分間だけ本気を出すように、私たちは30分だけ本気を出してタスクに取り掛かる。「30分だけだから」と考えると、心理的抵抗が軽く(面倒な作業でも)こなすことができる。

ちなみに公式版のやり方では「30分」ではなく「25分」となっている。Webライター業の場合は「時速換算で何文字書けるか」を把握していた方が作業が進めやすいので、私的には30分がしっくりなじむ。

私の場合は、平均すると「時速1,600文字」のペースで原稿を書く。だから1日に8時間(30分×16枠)の作業で、12,800文字分の原稿を書き進める。

時速1,600文字は決して速い執筆ペースではないが、8時間も連続して原稿に向きあえば、道半ばで精神が折れる。だから30分単位で時間を区切って、間には休憩を挟むことがすごく重要。

休憩時間は、ストレッチをしたり太陽の光を浴びたりする。身体と精神をリフレッシュさせて、再び「30分だけ」の原稿執筆作業に集中する。

30分おきに作業と休憩をサンドイッチのように挟み、マラソンのごとく一定のペースで無理なく走り切ることを目的とする。

手順

  1. 例えばその日に8時間仕事をするのであれば、紙に16個の四角い箱を描き、30分間で成し遂げたい作業内容を右側に書く。(原稿+800文字、など)
  2. カウントダウンタイマーをセット。30分のあいだ集中して作業をする。
  3. 30分後、アラームが鳴ったら、箱に赤ペンでチェックマークを入れる。進捗状況が予定と違っていれば、赤字で修正を入れる。キリが悪いところでも、とりあえずは切り上げて休憩に入る。
  4. 休憩の時間はお好みで。VDT作業における疲労の回復が主目的であるので、休憩時はとにかくパソコン等の画面から離れること。(ゆえにネットサーフィンやスマホゲームをするのはまったく休憩になっていない。筋トレ、ストレッチ、瞑想、散歩、なんでもよいので心身をほぐす)
  5. 休憩が終わったらまた、カウントダウンタイマーをセットし、30分間の集中した作業に入る。(以下、その日の箱のすべてにチェックが入るまでループ)

30分経ったら作業をやめて、ノートに書いたポモドーロ・ボックス(30分単位の四角い枠)に赤ペンでチェックを入れる。そして適度な休憩を取る。30分単位で進捗状況を確認できるのも、この仕事術のメリット。自分が30分のうちにできる作業量を把握しておこう。

1日12,000文字!」の執筆目標は、一見すると難しそうだが……。

30分で800文字」と考えれば決して難しくはない。適度に休憩を挟んでエネルギーを温存しつつ、「30分の集中した執筆時間」を積み重ねていけばいい。ちなみに12,000文字を達成するには、16枠(8時間分)を積み重ねる。私はだいたいこのペース。

自分に合った無理のないペースを見つけよう。

パソコンでの仕事をする場合には、休憩時間中はPCモニターなどから離れる。ニコニコ静画で漫画を読んだり、ニコニコ動画でアニメを見たり、ツイッターしたり、ネットサーフィンしたり、それは精神のリフレッシュには繋がるけれども、身体的な疲労を悪化させてしまう。

身体を軽くほぐして、目を休めることが大切。インスピレーションを要する仕事であれば、メモ帳とペンを持って散歩に出かけるのも良し。

まとめ

今回ご紹介したのは、かなり我流アレンジが入ったポモドーロ・テクニックだが、この時間管理術の本質的なポイントは変わらない。

すなわち「短時間の集中した作業」と「適度な休憩」の2つが仕事を無理なく(かつ効率的に)進めるためには重要だということだ。

私はこのポモドーロ・テクニックのおかげで、納期が5重にかさなって発狂しかけたときでも「1日2万文字」という驚異的な作業ペースを保つことができた。そして納品には間に合った。

私的には、やはり1日2万文字は(長期間やるには)無理が生じる。1日1万文字程度に仕事量を抑えるのが調度良いように感じる。

ポモドーロ・テクニックで「集中した30分間」を何度も積み重ねれば、自分が30分のあいだにどのくらいのペースで走れるのか、どのくらいのペースだと無理がないのかが感覚として掴めてくる。

今までさまざまな仕事術に手を出しては挫折してきたけれど、このポモドーロだけは私と非常に相性が良かった。向き不向きはあるだろうけれども、時間管理に悩むライターさんのお役に立てたのなら嬉しい。

(了)

「文才」と私たちの「ネコ」の話

信じてもらえないかもしれないが、今この文章を書いているのは、キーボードの上をぴょんぴょんと飛び跳ねている小さなネコで、その真っ白なネコは名前をマシロという。実のところマシロが僕のゴーストライターで、ほら今もキーボードをぽんぽん叩いて一文がムダに長い読みづらそうな第一段落を生成している。

マシロは機嫌が悪くなるとすぐゴロンと横になってしまって動かない。こうなると「書こう、書こう」とどれだけ焦ったところで無駄のスケで、思考は空回りするばかりで書くべき言葉が思い浮かばない。マシロの力無しでは僕は書けないのだ。

書きたいという気持ちが先走ってまったく筆が進まないとき、やるべきことはただひとつで、それはやるべきというよりもやらないべきと述べた方が良いのだが、とにかく書こう書こうと頑張ってしまってはいけない。

リラックスをして、肩の力を抜こう。

深呼吸をして、脱力。

少し眠くなる。

そのくらいがちょうどいい。

小説を書いていると、自分では何も考えていなくても手が勝手に動いて文章が自動的に紡がれていくような、不思議な感覚が生じる瞬間があり、人々はそれを「執筆の神が舞い降りた」と表現する。変性意識やトランス状態を意図的に生み出すことは難しいが、とにかく文章を書き進めるには精神と身体のリラックスが重要だ。

そう、ちょっとダンスするつもりで、キーボードを叩いてみればいい。指先が軽やかに踊りだし、カタカタ、と景気のいい音を立てる。陽気なリズムにおびき寄せられ、ネコがやってくる。

ネコは「ナー♪ ナー♪」と鳴いて、キーボードの上をぴょんぴょん跳ねまわる。自由を手に入れた言葉のうたが、原稿用紙に刻まれてゆく。悩まなくていい。苦しまなくていい。文章を書くのに必要なのは、ネコと仲良くすること。どこまでも自由に軽快に、あなたの創作を邪魔するものなど、どこにもいない。

文才があるとかないとか、金になるとかならないとか、羨まれるとか蔑まれるとか、気にしなくていい。くだらない。取るに足らない。書くことそのものの尊さに比べれば、瑣末である。

僕のネコは真っ白なマシロだが、文章を書く者なら誰しも心のうちにネコはいる。三毛猫だって黒猫だってペルシャネコだって何でも良いさ。書けないときは自分の精神の奥底に隠れているであろう創作のネコを探してみよう。

「文才」という言葉を正しく使うのは、大変難しい。僕たちが文才について語るとき、その背後には、嫉妬、軽蔑、諦観、卑下、羨望、さまざまなドス黒い感情が取り巻いている。足枷のように纏わりついて、書くことを重くさせてしまう。

誰から何と馬鹿にされようが、書いた文章を卑下してはいけない。大いに愛せよ。まず第一に大切にすべきなのは、ネコと飼い主の信頼関係だ。「私には文才がない」という言葉は、創作するネコを傷つける。ネコが逃げ出してしまう。

文章は「私の」才能によるものではない。「私が」持っているのは脚本理論と修辞技法の知識であり、これは勉学によって身に付けるものである。そしてセンスやアイデアは、「私の」頭から生み出されるものではない。蝶の羽ばたき、あるいはネコの気まぐれ。神と呼ぶのでも良い、超越的な自然から齎される偶発的事象の産物である。散歩中にアイデアが出やすいのは、太陽と風と花の精霊のおかげだ。

知識と技術は、自分のものに。才能は、ネコのものに。

文才があるとかないとかいう話で、自分が潰れてしまわないためには、きれいさっぱり棲み分けた方が心は軽い。つまり、努力でいくらでも高めることのできるレトリックやシナリオの知識と技術は、自分の領域と考える。努力でどうにもならない才能とやらは、ネコにお任せすればいい。創作はかつて、作者と精霊の共同作業によってなされるものだった。

ツァラトゥストラが神の死を告げようとも、創作の神までをも殺す必要はなかろう。自分たったひとりだけの力で、書こうと頑張らなくていい。いざとなったら神頼みしよう。

文才などといった仰々しいオバケはどこにもいない。おどけたネコが歌って踊っているだけだ。そしてネコは、すべての人の精神に住んでいる。

自由を愛する、ネコが――。

ナー、ナーと歌い出す。

飛び跳ねながら。 

だから文章をスラスラ書く方法は、神のみぞ、いやネコのみぞ知るところで、僕たちはもっと気軽にこのネコに頼っても良いのではないかと思う。

(了)

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Webライターに誇りはあるか、アフィリエイターに良心はあるか

フリーランスのWebライターとなって3年目となる。以前は企業の内勤ライターだった。アフィリエイト事業を中核とする会社で、僕は美容・健康系の記事制作を受け持っていた。

働きやすい環境だった。4人の社員さんで会社を回していて、みんな仲間意識が強い。僕も仲間に(非正規雇用だったが)加えてもらえ、若かったので「五条くん、五条くん」と呼ばれ可愛がられた。

先輩はよくコーヒーを奢ってくれた。社長さんは、孫娘の可愛さについて、ことあるごとに自慢していた。僕にはHTMLやPHPの手ほどきをしてくれた。みんな優しく、いつも和気あいあいとした空気が流れる。「これがアットホームな職場ってやつか……」と嬉しかった。ここで一生働こうと思っていた――。

無い内定のまま大学を卒業した僕にとって、あれほどに優しく快適な職場はなかった。対人恐怖があり、学生時代に就活で100社全滅。そんな落ちこぼれの自分をライターとして拾ってくれるところなど、もうどれだけ探しても見つからない。

だが、辞めた。

良心の呵責に耐えられなくなったからだ。

上のブログを読んで、いたく共感した。「ブラックな記事を書くことに葛藤する」という境遇が僕とそっくりだったからだ。

伊藤園の「水素水商法」が叩かれている。しかしあんなのまだ可愛いもので、僕とそこの社員さんがやっていたのは「詐欺だ」と罵られても文句は言えない正真正銘のブラックアフィリエイトだった。

僕が担当した美容・健康系の記事は特にひどかった。薬事法なんて概念はあったものではない。「動脈硬化を予防できます」「メタボ解消できます」「若返ります」「寿命が延びます」「背が伸びます」「病気が治ります」「記憶力が上がります」適当な科学的根拠をでっち上げた甘い文言でサプリメントを売りつける。

嘘の口コミもたくさん書いた。「3週間で体重が10キロ減りました」「不眠症が治りました」「健康診断で良い結果が出ました」「恋人ができました」「飲んでみたらすっきりとした味わいで美味しかったです」「身長が5センチ伸びました」

多い日は1日に2万文字ほど書いた。書けば書くほどに、感覚が麻痺していく。心を失った人形のように、僕はひたすら嘘の言葉を紡ぎ続けた。自分は書くロボットになっていればいいんだと思った。

ちなみに会社は、SEOの方もブラックハットな手法を使っていた。

id:teihen-writerさんも(私が知っている、参加していた「はてなブックマーク・スパム互助会」)で書いていた「IPアドレスを変えられる機械」とやらを使って、Yahoo!などのフリーメールを大量取得する。そのメアドではてなブログ・ライブドアブログ・FC2ブログ・JUGEMブログなどのアカウントを大量開設し、ブログを量産。(1,000や2,000は軽く超えている。10,000あるかもしれない)

ブログに専用ツールを用いて、マルコフ連鎖でワードサラダ記事を生成。自動で量産した記事から、サテライトサイトにリンクを送る。そしてサテライトサイトからメインサイトにまたリンクを貼り、被リンク偽装で検索エンジンを騙して順位を上げる。

ワードサラダスパムのイメージがつかない方は、下記の検索結果一覧を見てほしい。

はてなブログも、ワードサラダスパムにかなり汚染されている。自動生成ツールではなく、クラウドソーシングで1文字0.1円くらいで発注をかけるケースもある。いずれにせよ、それは人間のために書かれた記事ではないし、人間のやる仕事ではない。

良心と誇り

会社は「一身上の都合」で辞めた。辞めてからのアテはなかったし、バイトの面接にさえ落ちる僕はその後の生活に苦しんだ。

台風の夜、絶え間ない銃声のようにトタンの屋根が鳴り響き、玄関の木製ドアが風で吹っ飛んだ(誇張法ではなく本当に。死ぬかと思った)営業活動でやっと獲得したクライアントさんは気の荒い人で理不尽な要求も多く、対人関係でも悩まされた。

人を騙す嘘を吐き続けた自分への当然の報いであるし、天罰であった。いや、この程度で罪を償えるとは思っていない。地獄に落とされて、閻魔大王に会ったら真っ先に舌を抜かれるのはこの僕だ。

あまりにも多くの嘘をつき過ぎた。嘘を書いて人を幸せにできるのは、小説の世界だけである。中学生の頃から、文章を書くのが好きだった。将来は小説家になりたかった。

それがどうして、好きなものを貶めるような、書くことを侮辱するような、自分自身を否定するような、救いようのない悪事に身を染めてしまったのだろう。今さら後悔をしたところで、嘘を帳消しにできるわけではなかった。

Webライターとして独立してからの道も険しく、うまく行かないことの方が圧倒的に多かった。精神的にも憔悴し、死を考えていた時期もあった。

ライターだけでは食っていけず(運良く面接で通った)データ入力のアルバイトもした。数字をひたすら入力するだけの単純作業だったが、嘘をつかなくて良いことに心の底から安堵した。それは少なくとも誰かの役に立つ仕事だった。人を騙さなくていい仕事だった。

紆余曲折あり、今ではなんとかWebライターを本業にして生計を立てている。大変ありがたいことに、人の役に立てると思える仕事もいただけるようになった。

良心のない文章は、それがどれほど優れたレトリックで書かれていたとしても、死んでいるに等しい。良心なき文章は、死んでいる。僕もゾンビのような記事を大量に生み出してきた当事者である。死んだのは、ライターとしての誇りだ。

つい先日、誰もが知る有名企業のオウンドメディア担当者の方と、会って話をする機会があった。だいぶ打ち解けてから、彼はぽつりと零した。

「この業界って、良心が痛みますよね」

僕は顔だけ笑って硬直したまま、返す言葉がなかった。

彼の感じる痛みが、苦しいほどに理解できた。

闇は深い――。

戦わなければならない。まだまだ、これからも。

 

(了)

 

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怖い怖いと怯えていた「胃カメラ」を実際に飲んでみた所感

胃カメラを飲むのが怖い。怖くて怖くて、4ヶ月間も胃の不調を放置してきた。なんだか噂を聞くところによると、すっごく苦しいらしいし。注射を怖がる子どものごとく、僕はキリキリと痛む胃を両手で掴んで「ふぇぇ~、胃腸内科には行きたくないよぉ~」とめそめそ泣いていた。

さすがに仕事(ライター業)に支障をきたすようになってきて、しぶしぶ近所の胃腸内科クリニックに足を運ぶ。その日は診察のみで、胃カメラは一週間後に飲むことが決まった。(完全予約制らしい)検査日程を引き延ばせて「やったぜ」とガッツポーズする。

検査の日を待つ間、ネットサーフィンで胃カメラの体験談を読む。「検査前に飲むシロップがめちゃ不味い」「静脈注射が痛い」「異物感で喉が死にそう」などといった、恐ろしい言葉が並ぶ。僕の顔は青ざめていて、やっぱり検査キャンセルしよう……と思った。

手元には『私は胃内視鏡検査の目的と方法・危険性について十分理解しました。検査を受けることに同意します。』と書かれた、サイン入りの同意書。書類には胃カメラによる偶発症事例が箇条書きで記されている。ふぇぇ……やっぱり怖いよぉ……。

想像上の胃カメラ

行き渋っていたら、クライアントさんから「原稿まだですか!!」と催促が来た。僕は〆切から逃れるために慌てて家から飛び出し、なんとか胃腸内科クリニックに転がり込んだ。

「先生! 助けてください!!」「大丈夫大丈夫、あなたの年で胃ガンはまずないから。とりあえず胃のなか見てみまひょ」と検査室に連れて行かれた。

胃カメラ当日は朝食厳禁。飲めるのはコップ1杯の透明な水のみで、胃のなかを空にしておく。夕食も前日の午後9時までに済ませた。もとより緊張しすぎて、お腹が空くどころか食事も喉を通らない。

内視鏡室に入る。まず看護師さんにコップ1杯の飲み薬を手渡される。「胃のなかをキレイにするお薬ですよー」おお、これが不味いと噂の……。ごくごくと飲んでみる。

あれ、まずい……? まずくない!! いやこれは普通に飲めるぞ。これがマズいというなら、こないだ買った野菜ジュースの方が100倍マズかった。野菜の粒々が底の方に沈殿してドロっとした感じがとても受付けなかったが、それと比べればこの飲み薬は「美味しい」部類に入れてもいいぞ。ま、まさか僕を油断させるための罠なのか…!?

診療明細書を見ると「バロス消泡内容液2%」が僕の飲んだヤツっぽかったが、少なくとも不味いとは思わなかった。ふつうに飲みやすい。今となっては味さえよく覚えていない。

次に診査台に寝て、血圧を測る機械を腕につける。検査室内の様子を詳しく観察したかったが、メガネを外していて、ボヤけて何も見えない。側にいてくれた看護師さんも、声だけしか分からなかった。夢のなかにいるようだ。

血圧検査?を終えて、ゼリー状の麻酔についての説明を受ける。オエッとなる咽頭反射を防いでくれるらしい。口を開けて、喉にドロっとしたゼリーを入れてもらう。

「5分ほど喉で溜めて、飲み込まないでいてください」と言われる。5分!? 5分も耐えなきゃいけないの!? と焦ったが、いざやってみるとどうということはなかった。

舌の奥が痺れる感覚に(なるほど~これが麻酔ってやつなのか~)と面白がるくらいの余裕があったし、実際に面白い感覚だった。鼻でゆっくり深呼吸をすることに意識を向けていたら、5分はあっという間に過ぎた。

「ゆっくり飲み込んでください」と指示され、喉に溜めていたゼリー状の麻酔薬を5回くらいに分けて少しづつ飲み込む。思い込みかもしれないけれど、喉の力がふにゃふにゃ~と抜けるような感覚があった。

次に、左腕の手をグーの形に握って、肘の内側のあたりに静脈注射を打たれる。いや、注射を打つというよりも、針を入れられる? 裸眼で視界がぼやけていて、状況がよく分からない。「サイレース静注2mg」と診療明細書にはある。これは催眠鎮静剤だ。

看護師さんが「細い針ですからねー」と言っていたように、注射はまったく痛くなかった。タンスの角に足の小指をぶつけたときの方が1000倍は痛いと思う。チクッというか、キューとした注射特有の感覚があるだけで、痛み自体はほぼ感じない。

左側を下に、倒れこむような形になって横向けになる。喉の麻酔が聞いているのか、看護師さんの確認に答えようと思っても「は、はひ……」みたいに声が出てうまく話せない。

胃カメラ挿入のためのマウスピースを噛む頃には、先ほど静脈注射した鎮静剤が効いてきたのか、意識が急速にぼんやりとしてきた。眠いよ、パトラッシュ……。思考がぽけ~っとしてきて、とても心地良い。

生検もしたから、胃の組織を採取したはずだけれども、痛みは感じない。苦しくもない。看護師さんが優しく背中をさすってくれている。寝かしつけられる赤子のように、眠い。ここまでリラックスできたのは何年ぶりだろう。気持ちいい。心が安らぐ。

胃カメラの記憶は曖昧

検査は10分もかからなかっただろうか。気がつけば終わっていて、看護師さんに支えられてリカバリー室という部屋に連れて行かれる。ふらふらしていて、まだ足元がおぼつかない。喉の麻酔も解けていなくて「は、はひ……」の感じが残っている。

ふかふかのリクライニングチェアに座る。

「お疲れ様でした。ここで1時間ほどお休みください」周囲の薄緑色のカーテンを閉められて、癒やしの個室が生まれる。僕は重い目蓋を閉じて、10年に1度かと思われる深い深い眠りについた。

あゝ……素晴らしい……。あれだけ怖がっていた胃カメラ検査が嘘のよう。天国ではないのか、此処は。「もう一生やりたくない」なんてとんでもない。毎日だって来てもいいぞ。(来たら困るが)

〆切という名の怪物も、胃腸内科クリニックの結界内には入ってこれなかったようだ。僕はリカバリーの時間を堪能した。バブみを感じる。心なしか胃の痛みも治ったような気もするが……。

1時間後、診察室に呼ばれて、医師の話を聞く。大きな病気は見つからなかったようで、それは安心する。胃の写真を見せられて、どこどこが炎症を起こしていると説明してくれたけれども、まだ催眠鎮静剤の効果でぽけ~っとしていてよく聞いていなかった。

2週間後に組織検査の結果がわかるので、そのときにまた診察するとのことだった。処方箋を受け取り、家路に着く。

鎮静剤の静脈注射すごいな……。何だか安らぐような幸せな感覚が、その後3時間くらいは続いた。もしこれが市販されてたら絶対中毒になるわ。このようにしてクスリにハマっていくんだな……。とりとめのない思考で、帰ってまた昼寝をした。とにかくその日は幸せだった。

世の中に「胃カメラ苦しかった」という声があふれるなかで、このようなハピネスな体験ができた僕は、とてもラッキーだったのかもしれない。経口内視鏡が8mmと細い管だったこと、鎮静剤の注射が効いたこと、などがプラスに作用したのだろう。何よりお医者さんと看護師さんの腕がとても良かったんだと思う。本当に感謝したい。

今回の一件で「胃カメラを過度に怖がる必要はない」と分かった。もしも胃カメラが怖くて、もう何ヶ月間も病院に行かずに胃の痛みをこらえているとか、そんなかつての僕みたいな人がいたら、怖がらずに病院に行こう。

きっとその胃の痛みの方が、胃カメラよりもずっと苦しいはずなのだから――。

(了)

締め切りを人生の味方にしよう

締め切りは《胃》の天敵だ。僕はWebライターをしていて、常に何かしらの締め切りに追われている。納期が三重に被った日には胃がキュゥゥウと締め付けられる。ウシのように胃袋が四つは欲しくなるし、カエルのように胃袋を吐き出してジャブジャブと洗えたらどれほど良いだろうかと考える。

それでも、生きていくためには締め切りと戦わなければならない。それから、死なないためにも締め切りと仲良くしなくてはいけない。締め切りが近づくたびに胃痛に苦しめられるのでは、死神に追われるのと大差なかろう。精神的にも身体的にも、締め切りを味方につける必要がある。

では、どうすればいいのか?

ひとつは「小さな成功体験」を喜ぶことだ。締め切りまでに納品を終えて、原稿にGoサインが出され、報酬が振り込まれる。毎日の仕事の流れに過ぎないけれど、締め切りのひとつひとつには小さな成功体験がある。締め切りに間に合わせた達成感を素直に喜べば、締め切りは決して苦の概念ではなくなる。

もうひとつは「締め切りを追いかける」こと。英語では締め切りをDeadlineという。語感からして死神に追いかけられているような気持ちになる。けれども「締め切りに間に合う」は「meet a deadline」だ。むしろ気持ちとしては、こちらから死神のもとに出向いて抱きしめてやるぜ!くらいが良いのかもしれない。

締め切りを守れることはライター生命と等価だ。Deadlineは換言すればLifelineでもある。言葉遊びはこのくらいにして、以下では具体的なLifeHacksを。

Googleカレンダーをスケジュール管理に使う

Googleカレンダーは便利だ。僕もGoogleカレンダーへのリンクをブックマークバーの一番見やすいところに設置して、頻繁に使っている。予定はクラウドに保存される。PCからでもスマホからでも確認できる。〆切日にはスマホの方にアラートも出してくれる。

予定リスト一覧を出力することもできれば、カレンダーをA4用紙に印刷することもできる。使い勝手がいい。さすがGoogle。とはいえ万が一のセキュリティリスクを考えて、機密情報は一切書いていない。「はちみつ×2」「サプリ修正」「小松菜/カルシウム」など、他者から見たら意味不明な文字列が僕のカレンダーには並んでいる。

僕は依頼を受けたらすぐに、Googleカレンダーに締め切り(納期が明確に決まっていない場合は目安となる日)を書き込んでいる。複数の案件を同時並行で進めるときの方が多いので、そうしないと優先順位が分からなくなる。

ちなみに日々のタスク管理にはTrelloというWebサービスを使っている。詳しい説明は割愛するが、無料で使えて便利なので興味のある方はぜひ。

(2016年に日本語化対応がされた)

「先延ばし」にしないために「やりかけ」にしておく

先延ばし癖は、誰にでもある。僕もひどい後回し主義者で、夏休みの宿題を8月31日にやるタイプだった。そういえば《先延ばし》に関して、とても面白かったTED動画がこちら。

公式サイトの方へ飛んで閲覧される場合は下記リンクより。

ティム・アーバン: 先延ばし魔の頭の中はどうなっているか | TED Talk | TED.com

(スマホだと日本語字幕が表示されないかもですが、ファイトです!)

これはもうTEDトークのなかでも特にお気に入りで、好きすぎて3回も見返してしまった。わかるわかる。めっちゃわかる。共感の嵐だ。

英語ではあるけれど、著者のブログ記事もおすすめ。

閑話休題

僕の場合は、先延ばし癖を回避するため「早期の段階で仕事をやりかけておく」ことを心がけている。例えば記事制作の依頼が入ったらその日のうちに原稿ファイル(docx)を作成して、一行だけ何でも良いから書き込んでおく。

こうすることで次回以降の仕事に取り掛かる心理的ハードルが下げられ、先延ばししづらくなる。仕事をあえて切りの悪いところで終わらせるとうまく進む、といったライフハックは「ツァイガルニク効果」の言葉でも知られ、たしかにそれなりの効果を感じる。

「真っ白でまったく手を付けていない夏休みの宿題」と「最初の1問だけ解いている夏休みの宿題」があれば、(労力差はほとんど無くとも)後者の方が取り掛かりやすい。

何にせよ、やるべきことを後回しにしてぐだぐだと過ごしている時間こそが、一番苦しい。案ずるより産むが易しで、難しそうな課題でもやり始めれば楽になる。じっとうずくまって締め切りが迫る影に怯えるよりも、締め切りを追いかけていた方がはるかに楽しい。

これだけは――、確実に。

締め切りに追われる人生は果たして幸せなのか

ドイツ児童文学、ミヒャエル・エンデの『モモ』は、時間に追われる人々の悲劇を描いた作品でもある。人々は明日のため、未来のために、今の時間を節約しようとする。もっと効率的に、もっとスピーディーに。追い求めれば追い求めるほど、人々の生活に流れていた《時間》が灰色へと染まってゆく。

モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

モモ 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

 

締め切りに追われる人生が果たして幸せなのか、僕には一概に答えられない。ただし、締め切りを楽しんではいる。締め切りに追われる《今この瞬間》を楽しんでいる。

人生とは絶え間ない締め切りの連続である。

人はいつか、必ず死ぬ。死が人間にとって最後の締め切りであるならば、それは未来のためでも過去のためでもなく、今この瞬間のために存在しなくてはならない。

だから、締め切りのために人生を捧げるのはやめよう。人生のために、締め切りがあるのだから。

締め切りを人生の味方にしよう。

(終わり)

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