Webライターとして生きる

五条ダンのブログ。「楽しく書く」ための実践的方法論を研究する。

ゲオ宅配買取でPSVitaを売った話(備忘録)

PSVitaをゲオ宅配買取で売ったのはもう去年(2016年10月)の話になるのだけれど、とりあえず備忘録というか、メモ書きとして残しておきたい。

PSVitaを売った経緯

もともと不要になって(そのまま捨てるのは勿体無いなと思い)売っただけなので、高値で売りたいとかそういうことは一切考えなかった。近場にリサイクルショップがなく、じゃあまぁゲオの宅配買取でいいかーということで。

ちなみに送料はゲオ側が負担してくれる。こちらはダンボールと梱包材(ぷちぷち)を用意すれば良いだけで、あとは指定の時間に佐川急便の人が家まで引き取りに来てくれた。伝票についても向こう側で用意してくれた。本当に手間なく送れる。

家にはAmazonのダンボール箱が幾つかあったし、プチプチも捨てずに置いていたのがあった。とくに用意しなければならないものはなかった。

一週間後くらいには指定の銀行口座に(PSVitaを売った代金が)入金されていた。

なお、情報は2016年時点のもの。宅配業者だとか入金までの時間だとかは、人によってケース・バイ・ケースだろうと思う。

PSVitaはいくらで売れたのか

結論を述べると、PSVitaのPCH-2000シリーズ(Wi-Fiモデル)本体が1万円で売れた。かれこれ3年前に販売されたゲーム機であるし、1万で売れたのなら上々、不満はない。

ちなみにケーブル類の付属品や外箱、説明書等が完備の状態。箱と説明書を捨てずに丸々押入れに保管しておいたのが幸いだった。一応、箱に詰める前に、メガネクロスで本体を拭いて汚れを落としたり、ブロアー(一眼レフカメラの掃除に使うやつ)で埃を落としたり等の処理はした。

加えて、プレイステーションストアのアカウントと本機とのリンクを解除して、本体を初期化するのもこちら側でおこなった。

本機につけていたメモリーカードについても、フォーマットで初期状態に戻した。

驚いたことにメモリーカードの方にも値がついた。まさか売れるとは思っていなかったので、本機の中に入っていたのが32GBのものだったか64GBのものだったか確認するのを忘れてしまった。とにかくメモリーカードには3,000円の値がついた

この価格で売れた、というのは正直言って、売る時期だとか商品の状態によって変わってくる。あくまで情報は参考程度にするのに留めてほしい。通常は時間が経過するにつれて価値は下がってくるから、(もしもこの記事が読まれるのが2018年とか2019年とかだったら)もうほとんど参考にならない情報だと思う。

ちなみにゲオ宅配買取が何かキャンペーンをやっていたためか、追加で600円くらいのボーナスがついた。

結論として、PSVita(付属品・外箱・取説完備)+メモリーカードで、13,600円で売却することができた。

まとめ

当記事はゲオの宣伝でも何でもなく(たまたま検索でゲオ宅配買取を見つけただけなので)とりあえずどこで売ったとしても売却価格が大きく変わるとは思わない。

高く売りたいならば、ヤフオクだとかで直接売るほうが得策かもしれない。

とりあえず個人の体験談として、何らかのお役に立てれば幸いに思う。

※情報は2016年10月のものです。売却価格を保証するものではありません。

文学フリマ大阪に初めて行ってきた所感

2016年9月18日(日)開催の第四回文学フリマ大阪に一般参加してきた。

学生時代にコミティア大阪に行ったことがあるのだけれど、あのときは人の多さに圧倒されてしまって、結局何も買えないままに帰ってきてしまった。同人誌イベントを実質的に楽しめたのは、今回が初めてだ。

以前の後悔を繰り返さぬよう「買うぞー! いっぱい買うぞー!」と意気込んで会場に足を踏み入れた。その甲斐あってか、1万円ほど散財してしまった。購入冊数は24冊。こんなに大人買いをしたのは人生初で、まさに文フリ恐るべし……。

堺市産業振興センター イベントホール

会場は『堺市産業振興センター イベントホール』地下鉄御堂筋線のなかもず駅のすぐ近くにある。写真を見てのとおり、天気が悪かった。でも人はいっぱい来てた。

1.会場の雰囲気

入り口のところにサークルさんの一覧が掲載されたカタログが置いてあり、無料で貰える。入場料もかからない。入ってみると、小学生・中学生くらいの小さな子どもから、ご年配の方までいて、(イメージとは裏腹に)とても入りやすい雰囲気で驚いた。

ブースの前を歩いていると「どうぞ立ち読みしていってください」「パンフレットもしよければどうぞー」とサークルの方から声をかけられる。

正直なところ、小説は立ち読みでパラパラとページを捲ったくらいでは作品の巧拙を判断するのが難しい。だからサークルの方から声をかけてくださると、私のようなタイプの人間は(よっしゃとりあえず買うか)という方向に気持ちが動きやすい。

売るのであれば、やはり声掛けは重要だなと感じる。

あと、その場で立ち読みをしなくても、壇上スペースの「見本誌コーナー」でじっくりと作品を選定することができる。(声掛けられるの苦手だな…)という方は、最初に見本誌コーナーで買う本を決めてから、ブースの方へ足を運ぶとスムースに購入ができると思う。

人は午後3時過ぎあたりから結構まばらになってきて、空いてくる。コミティア大阪に行ったときはあまりの人の多さに頭がクラクラになってしまったが、文フリ大阪はゆっくりとブースを周れて良かった。(私なんかは会場を5周くらいはしてた)

本を買うと、おまけのくじ引きがあったり、飴ちゃんやお饅頭を貰ったり(さすが大阪?)、著者の方がサインをしてくださったり、トートバッグをつけてくれたりと、サービスに特色を出しているサークルさんも多く、やはりこういうのはイベントならではの雰囲気があって、なかなか楽しかった。

2.本について

プリンターで印刷したのをホッチキス留めした簡易的な冊子から、商業書籍顔負けのお洒落な装丁の本まで、さまざまある。ISBNコード付きの本もあった。

小説に限らず、詩、漫画、評論、絵本、ノベルゲーム、CD等、形式に囚われない作品が文フリには出されていて、ジャンルは非常に幅広い。《文学》の本質は《自由》であることを深く実感させられる。

文学フリマ大阪

今回の戦利品。合計で24冊手に入れて、使った金額は1万円ほど。正直ちょっと(初参加でテンションが舞い上がっていて)買いすぎた。通常の予算では5千円もあれば十分ではないかと思う。

購入した本のジャンルは純文学・SF・ライトノベル・百合・ホラー・アダルト・ファンタジー…etc

コミケではないけれど、財布に入っているお金をすべて使い切ってしまいたくなるような衝動に襲われる。気になる作品が多過ぎる。次回からは事前に予算をしっかり決めておかねば。

24冊で1万円だから、平均すると1冊416円くらいか……。しかし上記冊数には、無料配布でいただいたものや、まとめ買い割引のものも含まれている。なので1冊あたりだと平均600円~800円くらいになるとは思う。

値段としては、300円、500円、600円、800円、1000円の価格設定の作品が多い印象。文学フリマだから安く買えるといったことはなく、一般的な書店で出回っている商業書籍の価格帯とほぼ変わらない。(あくまで消費者目線だと割高に感じるとは思う)

紙の本を作って出版するというのは結構なコストがかかるもので、文フリで1冊1000円で売ったとしても「たいていは赤字だよー」とサークルの方は話していた。

3.文フリが終わってからが本番である

本は読むものである。作品は読まれなければ意味がない。

そしてもし最後まで読んだのならば、感想を著者の方へ届けたい。

読者としては、むしろここからが本番パートだ。私も買った本は積読にせず、じっくりと手に取って読んでいきたい。

今回文学フリマ大阪に一般参加してみて、ああ、これは私も出店参加してみたいな…と心底感じた。なんといっても作品の自由度が高い。自分の好きなものを書くんだ!という意志が、展示されている作品からひしひしと伝わってきて、売り手も買い手も創作に対して真摯であり、そのような雰囲気が、とても良かった。

来年も文フリ大阪に行きたいなと強く思った。決して入りづらい場所でも怖い場所でもないので、興味のある方はぜひ。

(終わり)

映画『君の名は。』小説を書くという視点から見た《夢》に関する創作的考察

※本記事は映画『君の名は。』の物語核心部分に触れる。これから映画を視聴される方にとっては、ネタバレとなる。すでに視聴済みであることを前提に話を進めるので、未視聴の方は避難されたし。


君の名は。(Amazonプライムビデオ)

『君の名は。』において僕がもっとも心を動かされたシーンについて

本題から入る。

『君の名は。』の作中シーンで、僕がもっとも心を揺さぶられたのは瀧(たき)が糸守町の風景デッサンを完成させた、あの場面である。風景画が完成されたところで、僕はすでに泣いてしまっていた。

この記事では「なぜ瀧が風景画を完成させることが凄まじいことなのか」の1点に絞って、僕の得た創作的考察を伝えたい。

なお、記事中では「瀧の視点での物語」について取り扱う。混乱の元となるので、この視点は固定しておきたい。

0.前提条件の確認

大前提として、瀧(たき)と三葉(みつは)の入れ替わり現象が《夢》により生み出されるものであることを強調しておきたい。作中でも描かれているとおり、あの現象は「不思議な現実」ではなくて「不思議な夢」である。

神秘体験はあくまで夢の延長線上にある現象であり、決してSFが起きているわけではない。その辺りを混同していると「どうしてスマホで日記を付けていたのに時間のズレに気づかないんだ」なんておかしな疑問が湧いてくる。

夢なのだから、夢世界で体験した出来事は忘却されて当然である。また、夢の世界で現在の西暦を気にして違和感を持つことなど(たとえ明晰夢状態であったとしても)大変な困難を伴う。

「瀧(in三葉)が初日でバイトをあれだけ自然にこなしているのはおかしい」といった疑問も、その入れ替わり現象が、夢をベースとして実現されていることを考えれば不思議でもなくなる。理論武装するならば、ユングの集合的無意識云々の話を持ち出しても構わない。

とにかく、瀧と三葉は《夢》を見ていて、その《夢の世界》のなかで入れ替わっていた。この前提条件だけは絶対に譲れないので、しつこいようだけど繰り返しておく。本作で描かれる神秘現象は《夢》が主であり、《入れ替わり》は従たる性質を持つ。

1.実存性が否定されるヒロイン

瀧が糸守町の風景画を書き上げた時点では、(瀧視点で)三葉の実存性は確かなものとなっていなかった。つまり、三葉は《夢》の生み出した空想上の産物で、現実世界には存在していない可能性が大いにあった。

女子高生と入れ替わる程度のことは、明晰夢の技法を用いれば僕たちでも再現できる。明晰夢下では、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚は現実のそれと変わらないほどにリアルで鮮明であり、もちろん作中で描かれたように胸を揉むことだってできよう。

瀧(in三葉)が最初のダイブ時に「ええ夢やわー」と言っていたことからも、やはり神秘体験としては(現実ではなく)夢寄りなのだ。

電話番号やメアドを交換しても通じないし、三葉がこの世に存在していることはどうやっても証明できない。

「日記があるじゃないか」と思われるかもしれないが、あれこそ僕たちでも容易に再現できる。空想したキャラクターを身体に憑依させて文章を書く。小説書きにとっては日常茶飯事であり、トランス状態に入れれば執筆時の記憶はなくなる。

女子生徒の日記を書くことくらい、太宰治もやっている。(と勢いで書いたが、この部分はきっと突っ込みをくらうだろう。女生徒は太宰がゼロから創作したものではない)

さておき、とにかく重要なことは瀧にとって三葉は「夢の世界で出会った存在のあやふやな人物」に過ぎないということ。出会う、という表現が妥当かどうかは微妙だが「夢の世界で知った」と置き換えても構わない。

なにしろ、作中でも描かれているとおり、入れ替わり時の体験は忘却されゆく。この世界に生きていないかもしれない、夢の世界にしかいない空想上の人かもしれない。

そのような実存性が否定され得るヒロインを瀧は好きになったのだ。

だからはっきり言って「君の名は。」はそんな生易しい恋愛物語ではない。夢の世界で知り合った人物に恋をする、という狂気的な構造が内包されている。

※「夢じゃなかったんだ!」という台詞も作中には出てくるが、それはあくまで、瀧が風景画を描き上げるシーン以降の話となる。(ゆえにここでは扱わない)物語のポイントとしてはやはり、まだ出会っていない人物に恋をする(≒不確かな存在に恋をする)というところだと感じる。

2.糸森町の風景画を描く行為は何を指すのか

「どうして瀧は入れ替わり時に住所を確認しなかったの? 風景画を描くときはGoogle画像検索で『糸森町』を検索したら一発じゃん。あと高校通ってたら学校名も絶対覚えているよね」

なんて野暮な質問を投げかける人は、記事をここまで読んでくださった読者のなかにはひとりもいないことと信じている。

承知のとおり、たとえ明晰夢状態であったとしても《現住所を確認したうえで、それを記憶していること》は不可能に近い。基本的に、文字だとか数字だとか、そういった情報は(夢のなかで知り得たとしても)記憶できない。

これは、夢日記歴10年の僕が保証する。瀧も三葉も、忘却されゆく夢の世界で、ものすごくうまくやっていた。それ以上の機転を求めるのはあまりにも酷である。

ここまでくればもうお察しかもしれない。

「瀧が糸森町の風景画を描いた」という事実が、その事実以上の衝撃を齎すことを。

そう、瀧が描いたのは、ただの風景画ではないのだ。実体験に基づく記憶を頼りに描いた絵画でもないのだ。

彼は《夢》で見た風景を描いたのだ。

瀧が描いたのは、夢の世界である。

ちょっと気を逸らせば記憶から零れ落ちてしまう、しゃぼん玉のように儚くて脆い、夢の風景である。

作中であのシーンはわりとサラッと流された気もするが、瀧があの絵を描くためにどれほどの苦労と執念を費やしたのか、想像に難くない。

瀧は、三葉と現実で会うために、あの絵を描いた。

実在しないかもしれない少女のために、描いたのだ。

僕が深く感動を得たのは、瀧のやっていた行為が、僕たちのやっている「小説を書く」という行為と極めて似ていたからだ。

僕は小説を書く。

見た夢を忘れないために。空想で終わらせないために。架空の少女を実存させるために。

瀧は、あの風景画を描き上げた瞬間、藝術家となっていた。僕の目には、そう見えた。

3.名前を忘れるということ

夢のなかで友人や恋人をつくった経験のある人は、僕以外にもいると思う。(夢って願望を叶えるものだから)

僕は、じつは、初恋の相手が「夢で知り合った人物」だった。

当時は夢日記と明晰夢に傾倒していて、夢で起きた体験はかなり鮮明に(現実と変わらないくらいに)記憶していられた。

初恋は高校生の頃。夢の世界で。相手の顔も名前も、まったく記憶に残っていない。覚えていない。たしかに僕は、彼女と出会って一目惚れをしたというのに。

夢のなかで、初恋の人とデートをしていて、僕は「このセカイは夢である」という事実に気づいてしまった。あともう少しで目覚ましのアラームが鳴るであろうことも知っていた。

だから彼女に別れを告げて、最後に名前を聞いた。君の名を教えてほしいと。

彼女は名前を教えてくれた。

決してその名だけは忘れるものかと思った。

目が覚めてすぐに、枕元にあった夢日記を開いて、彼女の名を書き留めようとした。けれど、名前が出てこない。あれほど好きだった彼女の笑顔も、思い出そうとすればするほどに色褪せていった。

夢を忘れてしまうのは、なんて悲しいことだとショックを受けた。

僕が覚えていたのは「大切な人を失った」という事実のみである。

夢を忘れるのが怖い。

夢を忘れたくない。

その恐怖と悲しみが原体験となって、僕は小説を書き始めるようになった。

夢のセカイで出会った人の名前は、記憶していられない。それは実際の明晰夢でも、「君の名は。」の世界でも、共通する掟のようである。

いつも何かを探している。

失い、忘れてしまった、何かとても大切なものを。

それを見つけるための行為が、小説を書くことであり、絵を描くことであり、音楽を奏でることである。

「君の名は。」は綺麗なハッピーエンドで、瀧も三葉も最終的には救われた。しかし、現実に生きる僕は、忘れた記憶を取り戻すことはできない。初恋の人に会うことも。

これからもきっと、僕は小説を書き続ける。忘れてしまった、何かを探して。

映画「君の名は。」で僕が心を動かされたのは、瀧の体験があまりにも自分の実体験と似ていて、なによりも「好きになった人を忘れたくない」という悲痛な叫びが胸に響いたからだ。

僕たちは日常生活のなかで、忘れたことを忘れている。

忘却を忘却していられるから、何事も無く生きていられる。

でも、本当は瀧のように、探さなければならないものなんだ。

見つかるとしても、見つからないとしても。

(了)

 

このブログと筆者について

当ブログ『Webライターとして生きる』は2016年01月18日に開設された。ここまでブログを続けてこれたのはひとえに読者の皆様のおかげであり、この場で深く感謝を申し上げたい。

【目次】

当ブログの目標

当ブログは、文章を書く《楽しさ》を伝えることを目標としている。もちろん、Webライターとして生計を立てるには、楽しむだけではいけない。記事を書いて収入を得る方法論や、筆力を伸ばす技術論が必要となるだろう。

けれども、僕たちは最初に考えた方が良い。どのような文章を書いたら、自分を幸せにできるのかを。読者について思い悩むのはその先のレベルの話で、マネタイズについて頭を抱えるのはもっともっと先の話だ。

まずは、書く楽しさを見つけよう。僕はブログを通じて、その手助けがしたい。

第一目標:《書く苦痛》からの解放

書く苦しみは大きく2つに分けられる。ひとつは「書きたくないことを書く苦しみ」であり、もうひとつは「書けない苦しみ」である。楽しむためには、両方の苦痛を取り除く必要がある。

「書きたくないことを書く苦しみ」

書きたくないことを無理やり書くのは、つらい。

自分の書きたくないことを無理矢理に書いて、苦しんでいる人たちがいる。お金のため、生活のため、評価されるため、僕たちは時として自分の意思に反する記事を書いてしまう。良心を捨て、仕事だと割り切り、読者を騙し、自分をも騙す。

僕もかつてはアフィリエイト会社の内勤ライターをしていて、ブラックな記事をたくさん書いてきた。フリーランスとなって独立してからも、良心に反するような記事の制作依頼は数多くあった。

ライターが書きたくもない記事を書くのは、ひとつの悲劇だ。(アフィリエイターでも、ブロガーでも、小説家でも同じである)

書くことで苦しむ必要性はどこにもない

書くことで苦しまなければならない理由は、なにひとつない。

僕は「書きたいことを書こう」と強く主張したい。

ともかく、君たちが望むことをやれ。

――だが、その前にまず、望むことのできる人間になれ!

(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』丘沢静也 訳/光文社古典新訳文庫 p.55)

何のためでもない。書きたいから書く。

君の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ。(p.89)

われはかく望むがゆえに、かく命ずる。(p.91)

(引用:カント『実践理性批判(1)』中山元 訳/光文社古典新訳文庫)

書くべきことを書く。ただ、それだけである。

しかしこのような理想論を語ったところで「そんなのは綺麗事にすぎない。現実を知らない馬鹿だ」と鼻で笑われる。

理想論を現実論に変えるためには、確固たる《知識》と《技術》が必要である。それを考えていくのが「Webライターとして生きる」を命題とする当ブログの役目である。

書きたいことを書く

第一目標「書く苦しみ」を「書く楽しみ」へ。

第二目標:《書けない苦痛》からの解放

物書きを悩ませるもうひとつは「書けない苦しみ」である。

書けない苦しみその1

書けない苦しみその2

なかなか思うように書けない苦しさはよく分かる。けれども、プロの物書きだってうまく書けないことを悩んでいるし、そしてうまく書けるよう努力している。だから「私は文才がないのであなたが羨ましいです」と僻んではいけない。他者と比べる前に、自分を磨こう。

文章は技術である。《文彩》は後天的に獲得可能な知識であり、レトリック(修辞技法)を自分のものとすれば、文章はいくらでも上達する。《技》を知れば知るほど、書くことは楽しくなる。

自分の伝えたいことを「より良く」表現するための技法がレトリックだ。身に付けるのは決して小手先のテクニックではない。当ブログでは「楽しく書き、楽しく読ませる」ための、本質的な創作技術論を紹介していきたい。

技術を磨いて「楽しく」書く

第ニ目標「書けない苦しみ」を「書く楽しみ」へ。

 

筆者について

ペンネームは五条ダン(ごじょうだん)。Webライター4年目。なんとか物書き一本で生計を立てられている。

紙媒体では出版経験もなく、まったく有名な人ではない。無名のライターである。まだまだ物書きとしては未熟であり、研鑽を積んでいきたい。

好きな生き物はナメクジ。Who goes slowly goes far.(ゆっくり歩むものが遠くに行く)が座右の銘。

もともと五条ダンは小説投稿用のペンネームで、小説家になろうカクヨムでは短編小説や長編小説を掲載している。関西圏の文学フリマにも時々出没するので、もし見かけたときは是非お声かけください。

冗談のようなペンネームだけれども「五条ダン」の名前を記憶の片隅にでも覚えていただけたならとても嬉しく思う。

五条ダン

(余談だが、たびたび登場する水色のオバケみたいな何かは《ナメクジオバケ》という名前の当ブログマスコットキャラクターである)

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当ブログでの記事広告や、五条ダン名義での寄稿依頼等ございましたら、お問い合わせフォームにてお気軽にご相談ください。

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フォロー&リムーブはお気軽にどうぞ。

お問い合わせ用のメールフォームはこちらとなります。(返信が必要なものについて)もし3日以内に返信が届かない場合は、Twitterの方にご連絡くださいますと幸いです。

ブログ記事へのご意見やご感想などございましたら、お気軽にお寄せください。

『Webライターとして生きる』を今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

(五条ダン)

【書評/自己啓発書の楽しみ方】ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。

「僕の人生を変えた◯◯冊の書籍」といったタイトルで、自己啓発書のラインナップをお勧めすると、手斧を持ったはてなブックマーカーがやってくる。彼らは「いい年してそんな本しか読んでいないとは嘆かわしい。低俗な自己啓発書に身をやつしていないで古典文学を読め」と説教をする。

似たようなことをショーペンハウアーも言っていて、彼のほうがさらに毒舌である。次から次へと出版される「凡俗な新刊書」を『毎年無数に孵化するハエのようだ』と形容して、そんな本は投げ捨ててしまえ!とさえ言っている。

詳しくはショーペンハウアー『読書について』(鈴木芳子 訳/光文社古典新訳文庫)を読むといいだろう。創作者には大いに役立つ劇物である。

おっと、大幅に話が逸れた。今回ご紹介するのは『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』(マイク・マクマナス 著)だ。

ソース?あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。

ソース?あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。

 

Amazonには157件のカスタマーレビューが並び、5つ星の絶賛コメントで溢れている。いわゆる、自己啓発書である。

1.自己啓発書はつまらないのか

僕の読書スタイルは「超」雑食で、純文学、海外文学、ライトノベル、ケータイ小説、ボーイズ・ラブ、百合、ありとあらゆる書物を好む。そのなかでも自己啓発書は好きで、一時期中毒になっていた。

もちろん、自己啓発書を読んだからといって、人生が好転したりポジティブ人間になったりはしなかった。本は、そう簡単に人を変えたりはしない。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を三回目に読んだときは流石に何かが変わりそうな気はしたが……。

それでも自己啓発書が面白いのは「読者を変えてやろう」という気概が感じられるからである。実際に読んだ直後はかなり良い気分になれるし、そのように感情を突き動かせるだけで相当な筆力である。

「ソース」は少なくとも、物書きとしては勉強となる部分が多い書籍であった。すなわち、いかにして読者にポジティブな気分になってもらうか、という技術が籠められている。

2.レトリックを受け止める

本作から一箇所のみ、それもまったく重要ではない、何の変哲もない一文を引用してみたい。(できれば下の引用文章を3回ほど繰り返して読んで欲しい)

テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。

(引用:ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。 Kindle版 マイク・マクマナス 著/以下同)

(補足:著者は自宅のテラスを自分の手で作りました。著者は不器用ながらも、大工仕事が好きです)

引用部分だけではわかりにくいかもしれないが、著者は上記のエピソードを通じて「得手不得手を言い訳にせず、やりたいことをやるべきだ!」という教訓を示している。

《抽象的な主張》を《具体的なエピソード》に仮託して、文脈を通じて読者に(暗に)教訓を伝える。このようなレトリックを諷喩(ふうゆ)という。

もっとも、このあとで著者がエピソードに籠めた意味をタネ明かししまくっているので、厳密には諷諭とは言えないかもしれないが、自己啓発書では諷諭がよく用いられる。

自分が作ったテラスの歪みを「まるでラクダの背中のよう」と形容する。これは直喩の技法だ。それにしても、何故ラクダなのだろうか。ヒトコブラクダでもフタコブラクダでも構わないけれども、ラクダの背中は相当にきつい曲線を描いている。

もしも本当に「ラクダの背中のような」テラスを作ってしまったら、それこそ立っているのも難しいだろう。

ゆえに上記の「ラクダの背中のような」の直喩は、歪んでいることをかなり大げさに(オーバーリアクションに)表現している比喩であることが分かる。このようなタイプのレトリックを誇張法と呼ぶ。

誇張法がもたらす効果はユーモアであり、簡単に言えば文章を楽しくさせる。もしも上の引用文章が次のようだったらどうだろう。

テラスはあちこち歪んでいました。お話にならないほどひどい代物です。(改変例文)

ほら、ラクダの比喩が無くなっただけで、随分と文章が暗い感じになるでしょう? ところが、ラクダを間に挟むと、ユーモアが出て明るくなるのです。これが、レトリックの偉大なる効果だ。

自己啓発書は、読者をポジティブな気分にさせることを目的とする。ポジティブにさせるには、笑わせるのが一番だ。笑ってもらうのに、レトリックは大いに役立つ。

引用例文は、読む人をなるべく暗くさせないようにしよう、という「読者への配慮」が見られる。大いに見習いたい。

そろそろくどくなってきたけれども、さらに解説を進める。

(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)

引用例文の丸括弧でくくられた一文。これも立派なレトリックで挿入法という。(ちなみに、丸括弧のことを『パーレン』と書くと、通っぽくてカッコイイ!)

 ↑ みたいな文章がまさに挿入法で、このレトリックでは文章の流れを一旦せき止める。そしてあまり重要ではない(?)文章を挿し入れることで、文の雰囲気を整えることを目的とする。

例文では、丸括弧の直前にある

お話にならないほどひどい代物です

の一文がけっこう強い言葉で、読者の心証を考えるとバランスを取りたくなる。「ひどい」の形容詞が、ネガティブなイメージを無意識化に与えてしまうかもしれない。

そこで「ひどい」を中和する語句として「笑い」を入れておきたい。すべては読者をポジティブにさせるためである。

もう一度、引用例文を眺めて欲しい。

テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。

読者のことが考えられた、よくできた文章である。

「歪んだテラス」と「ラクダの背中」

「お話にならないほどひどい代物」と「腹を抱えて笑う」

ネガティブなイメージとポジティブなユーモアが見事に調和し、文章全体としてバランスが保たれているのが分かるだろう。

自己啓発書を馬鹿にする人は、自己啓発書が「読者を良い気持ちにさせよう」とする技術と執念の力を甘くみている。ここで挙げた例文は、たまたま目についたふつうの一文に過ぎない。

3.速読では見つけられない面白さ

悲しいことに、自己啓発書はパラパラーっと流し読みにされることが多く、精読される機会は少ない(かもしれない)。

世の中には、本を早く読もう!をモットーとする『速読術』が溢れている。速読も役立つことはあろうし、否定はしない。

でも、立ち止まらなければ見つけられない面白さが、読書には存在する。自己啓発書に限らず、純文学でもケータイ小説でも、虫眼鏡で観察するようにして文章を読んでいくと興味深い発見が多い。

僕はこれを『ミクロの読書術』と呼んでいる。文章を扱う仕事を目指す人は、ぜひミクロの読書術を試してみて欲しい。「木を見て森を見ず」と言われるけれど、ときには「葉の細胞」を見ることが役立つこともある。

4.結局、書評はどうなったの?

タイトルに『書評』と書いておきながら、未だに内容に関する記載がない。だが、僕が今この瞬間、この文章を書いているのは、まさに本書を読んだからに他ならない。

『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』

タイトルのとおり、著者の主張は首尾一貫している。

つまり、自分のワクワクすることを今すぐ実行せよ!ということである。

僕は本を読んで、文章のレトリックを解析することが何よりもワクワクする。自分の発見したことをブログに綴るのは、もっとワクワクする。

今こうして文章を書いていることそのものが、本書に影響を受けた何よりの証拠で、これをもって書評とさせていただきたい。

(終わり)

ソース?あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。

ソース?あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。

 

※2016年9月1日現在は、Amazon Kindle Unlimited の対象本となっています。

依頼の受発注時に警戒すべき3つの心理テクニック

世の中には「人を思い通りに動かす」ための心理テクニックが溢れている。正直なところ、そのような下心をあからさまに押し出したタイトルの書籍を売るのはいかがなものかと眉をしかめる。本屋に並べられているところを見ると、需要はあるのだろう。

この記事では、仕事の受発注時に警戒しておいた方が良い4つの心理テクニックについて紹介したい。僕はWebライターをしているから、例に用いるのはWebライティング案件の委託受注に関するものが多い。

1.返報性の原理

返報性の原理(へんぽうせいのげんり)はすでにご存知の方も多いだろう。知名度がとても高い心理的原理だ。人は何らかの好意を受け取ると、そのお返しがしたくなってしまう。

試食品や無料サンプルなどで、まずは無償の《好意》を与える。スーパーの試食品コーナーに行くと特にそうなんだけれど「ただで味見させてもらったんだから、1個くらいは買っておこうかな」という気持ちになる。

返報性の原理は「海老で鯛を釣る」手法として、マーケティングでは幅広く用いられる。車の試乗だとか、記念品のプレゼントだとか、無料見積もりに無料相談会に無料査定などなど、たくさんある。

とにかく、何らかの「見返り」を求めて相手に好意をふりまくのが、この戦略のポイントである。

ここだけの話(今もやっているかどうか知らないが)アフィリエイターやブロガー向けのセミナーに行くと「返報性の原理」の言葉を耳にする。つまり「はてなブックマークを使っているブロガーさんを見つけたら、積極的に相手の記事をブクマしたりTwitterでシェアしたりポジティブなコメントをつけて、恩を売っておきましょう。そうすると返報性の原理が働いて、自分の記事にもお返しシェアやお返しブクマが集まりますよ」とセミナーでは語られる。

かれこれ2年ほど前の話なのだが、今もセミナーはあるのだろうか。互助会を一緒くたに批難するつもりはないが、見返り前提のブクマには首を傾げざるを得ない。

依頼者側が、ライターやイラストレーターに「返報性の原理」を使おうと思えば、とくにコストは必要とならない。なぜならば、承認欲求を満たしてやりさえすればそれが《施し》となるからだ。(ひどい話だが、このように考える人もいる)

悪筆なので上のイラストの、緑色のカニが何を話しているか読めなかったら申し訳ない。とにかく……

  • あなたはとても素晴らしい、誠実な方です
  • あなたのような素敵な方と一緒にお仕事ができたら、どれほど幸せか
  • 圧倒的な文才! 迸るセンス! 芸術的な絵柄だ!
  • あなたほどの優秀な人材を野放しにしておくのは勿体無い

みたいな感じで、とにかく褒め殺しにする。僕のような小説新人賞万年一次落ちの三文文士ワナビなんかは、褒め慣れていない。だから少し褒められると鼻が天狗になって、ほいほい相手の口車に乗せられてしまう。

セールスマンでも宗教勧誘でも「褒め上手」の人が相手だと、ついつい引っかかってしまう。

もちろん(この記事で誤解を与えなければ良いのだが)本心から褒めてくれる人、見返り目的でなく純粋に僕を評価してくださる依頼主さん、クライアントさんはいらっしゃる。本当に嬉しく思うし、心から感謝している。

だけれども、初対面でお互いのこともよく知らないのに、初っ端からやたらめったらと褒め殺しにしてくる人もいる。そのような相手とビジネスをして、良い結末を迎えたことがほとんどない。

正当な理由がないのにむやみやたらと褒めてくる相手」を僕は一番警戒している。自分を理解してくれる都合の良い人間は、そうそう簡単に現れたりしない。そんな甘い話はない。

下手に褒めると警戒される」というのも、頭の片隅に覚えておくと良いかもしれない。なにせ「返報性の原理」は広く知れ渡っているので、当然相手方も知っている可能性が高い。甘い言葉には裏があるんじゃないか……と警戒心を与えてしまうくらいであれば、お世辞はそこそこに本音でぶつかっていった方が良い。

《返報性の原理》は言われるほど使い勝手の良いテクニックではない。使う方も使われる方も、注意が必要だ。

2.ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック

 

ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックとは、まず相手に無茶な要求を突きつけておいて「あえて断らせてから」次にもう少しマシな要求(こちらが本命)を提示し、条件を受け入れさせるテクニックである。

例えば、

依頼主「1文字単価0.1円で記事書けますか?」

ライター「申し訳ありませんがお引き受けいたしかねます」

依頼主「じゃあ、0.5円でどうですか。お願いします!」

ライター(うーん…本当なら断るところだけれど、せっかく5倍まで単価上げて譲歩してもらったし、2連続では断りづらい……)「わかりました。その条件で承ります」

といった感じに話をもっていく。人間は直前に提示された条件に引きずられてしまう(アンカリング効果)から、最初に高い要求を突きつけられると、価値判断能力が麻痺してしまう。

かくいう僕も、露店で呼び止められて「お客さんラッキーですねぇ。この腕時計、本当は1万円なんだけど、今は閉店セールで大特価90%OFF!! 1000円で売ってあげます」とセールスされた。

ぱっと見、高級そうな腕時計に見えて(わあいラッキー!!)と思った僕は「ホントですか! なら5本ください!!」と見事に乗せられてしまった。もちろんその時計はブランドでも何でもないパチもんみたいな奴で、300円の価値があるかさえ怪しい。

おっと話が逸れた。ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはこのようなパターンもある。

依頼主「ところで明日までに納品をお願いしたいのですが」

ライター「いや…さすがにそれは急過ぎて、難しいです……」

依頼主「うーん、なら3日後でどうですかね」

ライター(ふぇぇ…この作業量なら1週間は最低でも欲しいのだけれど、相手も譲歩してくれたしこちらも多少は譲歩しなければ……)「わかりました。その条件で承ります」

そう、このテクニックは「相手にわざと断らせてから、(本命の)譲歩の案を提示する。すると《譲歩》に対する返報性の原理が働いて、相手も条件を飲んでくれる」という心理に基づくものだ。

良さげな心理テクだが、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはひとつだけ致命的な欠点がある

そもそも論として、初手で「相手に無茶な要求を突き付ける」という行為そのものが、相手にかなりの悪印象を与えてしまうのである。

依頼主「1文字単価0.1円で記事を書いてくれますか?」

ライター(ひぇぇ…多分関わったらマズイことになるブラッククライアントや…)「お断りします」

依頼主「なら0.5円で…」

ライター(関わらないのが得策やで…)「お断りします」

と、このようになる。これは警戒されて当然である。

ライター側の心得としては「1文字◯◯円を下回る仕事は絶対に受けない」とルールを決めておくと良いだろう。

3.ローボール・テクニック

ローボール・テクニックとは、最初に相手の受け入れやすい欲求を提示して、ひとまずの承諾を得る。その次に相手にとって不利な条件を(後出しジャンケン的に出して)欲求を飲み込ませる、えげつない心理テクである。

具体例を挙げてみよう。

依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」

ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」

依頼主「あ、原稿を書くついでに、見出しタグと強調タグとリストタグのマークアップをお願いしたいのですが」

ライター「分かりましたー!」

依頼主「良かった。あとついでに、記事のアイキャッチ画像もご用意いただけますか。フリー写真サイトから探してくだされば構わないので」

ライター「え…あ……はい」(もう仕事承諾してるし断りづらいな)

依頼主「それから、ここの部分は取材が必要となるので、取材についても込みでお願いしたいのですが」

ライター「……は、はい……」(ひぇぇ、ホワイト案件だと思ったらブラックだったよぉ)

別のパターンも見ておこう。

依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」

ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」

依頼主「ところでライターさん、Twitterアカウントとフェイスブックアカウントをお持ちでしたよね」

ライター「ええ持ってますよ」

依頼主「良かった。記事公開の際にご連絡差し上げますので、ついでにTwitterとフェイスブックの方でもシェアをよろしくお願いいたします」

ライター「えぇ……」

いずれの事例にせよ、すでに仕事を承諾したあとだと、後出しで不利な条件を出されたとき(雰囲気的に)なかなか断りづらくなる。

これは「コミットメントと一貫性の原理」が働くからだ。最初に「やります!」とコミット(約束)をすると、そのあとはコミットに対して一貫した態度・行動を取ろうと努力したくなる。

だから後付けで仕事の負荷を増やされても、そうそう首を横には振れない。

やられる側の対処法としては「とにかく安請け合いをしないこと」契約をする前に、どこからどこまでが業務範囲となるのか、しっかり詰めておく。それまではYESと言わない。

仮に、先に承諾をしてしまったのであれば、依頼主から追加要求を出された際に、こちらも追加料金を要求する。Webライターをしていると、ローボール・テクニックを使った依頼案件には引っかかる機会がけっこうあるので、注意されたし。

まとめ

「返報性の原理」「ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック」「ローボール・テクニック」はすべて、相手の感情・心理的作用に働きかける。

だから、仕事を引き受けるかどうかを「その場の感情」によって決定していると、相手の術中に嵌りやすい。自分の直感を信じよ!なんてビジネス書もあるけれど、契約の場で直感に頼るのは大変危うい。(人の心には容易く干渉できる)

だから「1記事◯◯円以上の仕事は受ける」「対応する範囲は◯◯まで」と明確なルールを予め設定しておくことをおすすめしたい。

追記しておくと、これらのテクニックが通用するのは「知識の非対称性」がある場合のみである。(あっこれはローボール・テクニックを使ってきてるな!)と相手側に見抜かれてしまえば、テクニックを使った側は信頼を落としてしまうことに繋がる。

今の時代、心理テクニックのノウハウ本なんて、そこらにゴロゴロ出回っている。「自分の知っていることは、相手もきっと知っている」と警戒して交渉に臨んだ方が、無難だろう。

僕としては、あまり心理テクニックに頼るのは推奨できない。本当にそのようなテクニックが万人に自在に扱えるものだとしたら、僕は今ごろモテモテのハーレムを手に入れているに違いないのだから。

(終わり)

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後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない

アフィリエイトで成功するために、何よりも大切にしなければならないのは「己の良心」である。この一言に尽きる。お金を儲けるのは大いに良いことであるし、僕だって札束を扇子代わりにする生活には憧れている。

しかし、金のために良心を売り渡してしまってはいけない。

(どこぞと知れぬWebライターが綺麗事と理想論をほざいてやがるぜ…)と思われるかもしれないが、至って本気である。そもそも僕たちは、いつかかならず死ぬのだ。未来の成功とやらのために、今この瞬間の《生》を犠牲にしてどうする。

「自分が今ここに生きていること」を肯定できないような、後ろめたい行為はすべきではない。何度でも言う。

アフィリエイトでは何をやるべきなのか?

アフィリエイトサイトを作るうえでやるべきことは、すべて「~ない」という否定形で示せる。以下に箇条書きにする。

  1. 嘘をつかない
  2. 読者を騙さない
  3. 口コミや体験談を捏造しない
  4. 科学的根拠を捏造しない
  5. 薬機法(薬事法)に反する記事を書かない
  6. 公序良俗に反する記事を書かない
  7. 著作権や肖像権を侵害しない
  8. その他法令や社会的倫理に反する記事を書かない
  9. 読者の不安や怒りを煽って、誘導するようなことはしない
  10. ステマはしない
  11. 不当に(外注する)記事を買い叩かない
  12. ブラックハットSEOをしない
  13. ネガティブSEOをしない
  14. 他者への誹謗中傷をしない、悪口を書かない
  15. 他サイトを不当に貶めることで優位に立とうとしない
  16. 競合商品を不当に貶めることで商品を売りつけようとしない
  17. 夜中にこっそりリスティング禁止の案件を乗っけたりしない
  18. 売りたくもない商品を無理やり売ろうとしない
  19. 誤クリックを狙わない
  20. 過激なタイトルで釣ろうとしない
  21. 自分の良心に反するような記事は書かない

どれも当たり前のことばかりなのだけれど、その「当たり前」がいかに困難であり、貴重であるのかを僕はよく知っている。せっかくウェブサイトを作るだけの技術と知識があるのだから(社会貢献せよとは言わないが)自分が心から満足して幸せな気持ちになれるような、良いサイトを目指してほしい。

良いサイトを作る!!

もう少しぶっちゃけた話

「稼ぐために手段は選ばない!」と本気で思うのであれば、ブラックな方法でサイトを作るのはなおさら得策ではない。想定が、甘い。なぜならば、競合する他者もまた「稼ぐために手段は選ばない」からである。

ネガティブSEOで低品質なリンクを相手に押し付けるよりも、はるかに簡単に確実に、競合を検索結果から蹴落とす方法がある。相手が、後ろめたい記事を書いているのであれば。

「◯◯サプリで◯◯病が治ります!」みたいな露骨な薬機法違反をやっているアフィリエイトサイトは、それこそ弱点丸出しの状態であり「どうぞASPと広告主に通報してください」とはらわたを晒しているのと同じである。

記事をリライトして検索順位を上げるよりも、相手をぶっ飛ばして順位を上げる方が簡単だ。そのような(自サイトよりも上位にあるブラックサイトを潰すことによって)自分の検索順位を上げようと企てる、アフィリエイターはそれなりにいる。

健康サプリ案件だと、やはり薬機法違反で攻めやすい。他のジャンルだと、著作権違反もわかりやすい。(あっ、この記事はあのサイトのパクリだ!)というのは、そのジャンルについて精通するアフィリエイターが見れば容易に見抜ける。

そのような弱みのあるサイトが競合であった場合、まずはサイトに記載されている連絡先にメールでコンタクトを取る。記事の問題点を指摘し、修正か撤回を求める。

多くの相手は記事の「削除」を選択する。記事が消えてくれれば、こちらの検索順位は(おそらく)ひとつ上にあがることだろう。

メールへの返信はさまざま。「外注したライターが書いたもので、チェックができていませんでした」と言い訳される場合もあれば、「共同運営のサイトで私が書いた記事ではないのですが、たしかにおっしゃるとおりですね。消しました」と謎の責任逃れをされる場合もある。返信はなく、しれっと記事だけ消されることも。

いずれにせよ、相手には後ろめたい感情がある。だから、競合記事は消される運命を辿る。

僕は、他者には甘い。だから(よっぽど悪質な奴を除いては)ASPに通報したりはしない。まずは、メールでコンタクトを取るようにしている。(ばんばん通報してやるぜ!!と好戦的なアフィリエイターさんもいます。もちろん)

PCデポの騒ぎのように、不誠実なビジネスを続けていれば、いつかはしっぺ返しを受ける。基本的に、アフィリエイターさん同士は仲が良いし「ライバルを蹴落としてやるぜ!」というよりかは「情報交換し合って共に儲けよう!」といった健全なコミュニティが形成されている。

しかし、仲間を大切にすることと、他者に甘いこととは話が違う。自分よりも検索上位にある競合サイトが、明らかに悪いことをしている。そりゃあもう、見逃している場合ではないでしょう。格好の標的です。

だから、何度も何度も繰り返す。後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない。自分の良心を信じて、良いサイトを作ろう。

(終わり)

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【書評】三世留男『ダイバーダウンの世界』Kindle個人出版最高の奇書

できることならば、著者の三世留男氏にファンレターを送りたい。だが、連絡先が分からない。この場で「書評」として紹介することで、いつの日か著者の元へ届けばと願っている。

ダイバーダウンの世界

ダイバーダウンの世界

 

本日紹介する書籍は『ダイバーダウンの世界』(三世留男 著)。Kindleストアで個人出版されている短編小説集である。

KDP(個人出版本)は、はっきり言って面白い作品を見つけることが難しい。小説ともなれば、読むに耐えない作品も多い。そのなかで本作に出会えたことは、僕としては幸運だった。

本書は良作、には違いないのだけれど、奇書や怪書の類でもある。読者は、かなり選ぶ。どう考えても万人受けする物語ではない。しかし、商業出版では決して読むことの出来ない魅力が、この作品には詰まっている。

内容紹介

端的に述べれば「明晰夢」をテーマとした小説である。表題作『ダイバーダウン』と『タイムリープ』『マインドシーカー』の短編三部で構成されている。それぞれ物語としては独立しているが、相互に繋がりを持つ。

「明晰夢」は聞いたことがあるだろうか? 簡単に言えば、鮮明に覚えている夢のこと。夢か現実か区別がつかないほどの、リアルな体験。しかも、夢のなかにいる自分は「この世界が夢であること」を自覚している。

明晰夢は訓練によって身に付けることができ、極めれば自由自在に夢の内容をコントロールできる。例えば片思いの人や憧れのアイドルと、あんなこと【自主規制】やこんなこと【自主規制】をすることだってできるし、そのときに得られる性的快楽は本物(場合によってはリアルを超える)である。夢だけど。

「でも夢の内容なんてすぐに忘れるじゃん? 虚しいだけだよ」と思うかもしれないが、見た夢を忘れない訓練も、明晰夢を見るうえでは重要となる。修行を積めば、夢日記に頼らなくても、現実体験とまったく同じに、夢を記憶していることができる。

で、どうしてこのような話をしたかと言えば、本書は小説である以前に「明晰夢の指南書」でもあるのだ。明晰夢に興味がある人、明晰夢が見たい人は、本書で得られるヒントに従って練習すれば、きっと成功するはず。明晰夢の手引書としては、非常に有用な本である。

かくいう僕も、明晰夢を見ることができる。空も泳げる。巨大化してゴジラとも戦える。アイスクリームだって食べられる。夢の世界ではすべてが思いのままで、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、五感は現実のそれと変わらない。明晰夢の世界でほっぺたをつねると、ふつうに痛かったりする。

そのリアルな神秘体験は、凄まじい。今までの世界観念が、音を立てて崩壊するほどの衝撃だと思う。誇張ではなく、本当に。

本書ではそんな「明晰夢」を見ることをダイバーダウン(引用:ダイバーが素潜り中に息が続かなくなって意識を失う状態)という言葉を使って説明し、物語形式で夢見の技法のレクチャーをしてくれる。(いや、レクチャーと言えるほど親切ではなくて、ただ極めて重要なヒントを与えてくれる)

ダイバーダウンを軸とした「タイムリープ」の方法と、「マインドシーカー」(読心術)の方法についても、紹介している。本作で描かれる神秘体験は、基本的にはすべて実際に体験することが可能である。ゆえに、SFではない。

さて、ここまで読み進めて来られた読者は「もしかして怪しいオカルトトンデモ本じゃないの?」と訝しんでおられるかもしれない。うーむ、だからこの本を書評したり、他者に薦めるのは、大変な困難を伴う。

本書を純粋に、娯楽小説(エンターテインメント)として読んだ場合、それでも楽しめるといえば楽しめるのだが、どこか不可解さや後味の悪さが残るのではないかと感ずる。エンタメとしては、あまり良い構成ではない。

読者におすすめしたいのは「小説を書くとはどういうことか」を常に頭のなかで考えながら、本書を読解することだ。そうすれば、きっと創作のヒントが得られることと思う。以下に、僕の感じた「鍵」を残しておきたい。

なんのための明晰夢なのか?

明晰夢が見られるようになることで、なにかメリットがあるのか? 当事者から言わせてもらえば、じつはとくにない。毎晩、夢を見るのがちょっと楽しくなるくらい。明晰夢によって現実世界にプラスの影響を与えることは、難しい。

(余談だが、僕は明晰夢を使ってロト6を当てようと試みたことがあるのだが、すべて外れた。明晰夢はたしかに神秘的な体験ではあるが、予知夢のような超能力とは異なる)

それどころか、明晰夢は得てして、生活に悪影響を及ぼすこともある。僕は高校生の頃、明晰夢に大変ハマっていて、毎日夢日記をつけて夢分析にも興じていたのだが、メンタルは日に日に悪化していった。

夢は得てして、現実を侵食することがある。スピリチュアル系の本が嫌われるのは、その神秘体験に高い中毒性があり、人々の現実生活を脅かすケースがあるからである。

明晰夢がどれほどに素晴らしい体験であったとしても、現実に生きる我々は「夢」ではなく「現実」を選ばなければならない。自分を取り巻く世界が嫌で神秘体験に溺れるのは、現実逃避に他ならない。

では、僕たちはどのように明晰夢を活用すべきなのか。なんのための明晰夢なのか。

僕に言わせれば、夢とは人間が無意識的におこなう「創作活動」であり、夢はすべて虚構である。それならば、虚構の世界でこそ生かせば良いではないか。

明晰夢を見ることも、夢日記をつけることも(現実生活ではほとんど役立たないが)少なくとも、小説を書くうえではおおいに役立つ。

夢日記をつけていると、僕は気づくことがある。

夢の内容を思い出し、詳しく描写していく行為。これは、小説を書くことそのものである、と――。

本作の描写について

読みやすい文体であるが、もしかしたら描写がくどく感じられるかもしれない。文章から得られる情報量、情景・心理・行動描写が、一般的な小説よりも多い。これは僕の憶測では、意図されたものだと思う。

一部のシーンなどは、アクティブ・イマジネーション(能動的想像法)を使って描写されたのではないだろうか。考えすぎだろうか。

小説を書くこと

とにかく、もしも小説を書きたい人がいるならば「ダイバーダウンを応用して小説を書くことはできるか?」を念頭に読み進めていくと、発見が多いと思う。

あんまりスピリチュアル系の知識を披露すると読者にドン引きされるので普段は控えているのだが、本書に出てくる

  • ダイバーダウン(明晰夢/白昼夢/体外離脱)
  • タイムリープ(時間跳躍)
  • マインドシーキング(読心術/自己投影術/人心掌握術)

をはじめ、

  • アクティブ・イマジネーション(能動的想像法)
  • タルパ(人工精霊術)
  • セルフヒプノ(自己催眠)
  • ネクロマンシー(降霊術)

などなど。

これらは決して超能力ではないから、この能力で宝くじを当てることはできないし、おそらく実生活で役立つ機会も少ないだろう。お金儲けに利用しようとすると、まず碌なことにならない。

無理に現実で活かそうと頑張れば、弊害も出てくるだろうと思う。(予知夢や第六感を頑なに信じるだとか、自己催眠でポジティブな性格に生まれ変わるだとか、おすすめできない。リンゴに毎日「ありがとう」と語りかけることも推奨しない)

ただ、確実に言えるのは、神秘体験は少なくとも「小説を書くこと」には活かせる。小説の世界観、キャラクター、物語を創るうえで、これらの神秘体験を得る技術は(ひとつの創作手法として)役に立つ。

なぜならば、小説を書くことそのものが、ある種の神秘体験だからである。

遅れた自己紹介

遅ればせながら、この記事を書いている僕が何者かについて、自己紹介をおこないたい。Webライターだとか小説書きだとか、属性はいろいろあるのだけれど、本書の作者とはひとつだけ、大きな共通項がある。

それは、正木敬之博士(九州帝国大学 精神病科教授)を師と仰ぐ者であること。著者は「思想物理学」を研究していたらしいが、僕の方は「虚構心理学」を探求していた。*1

著者と僕とでは、きっと目指す方向は異なるだろうけれども、同じ師を持つ者として、シンパシーを感じずにはいられなかった。こんなに長い書評(的な何か)を書いているのはそのためである。

ちなみに虚構心理学では、小説、漫画、アニメ、映画…etcの創作世界に住まう人物の精神分析をおこなうことを専門とする。架空人物の心理を研究するなんて、馬鹿じゃないのか?と思われるかもしれないが、大真面目だ。

思うに、我々生身の人間と、創作世界のキャラクターとの間には、決定的な差異がない。キャラクターもまた、実存的な存在である。読者に読まれるたびに「永遠回帰」する小説の登場人物などは、むしろ私たちよりも「明晰に生きている」と言えるのではないだろうか。

かくいう僕自身も、じつは虚構の産物から生まれた存在であったりする。それでも、僕はたしかに、今ここに生きている。

総括

この書評を読んで何かが引っかかる人(特に「明晰夢」のキーワードに惹かれる人)は、本書を読んで後悔はしないと思う。繰り返すけれども、読む人を相当に選ぶ。付け加えて、物語の一部に性的な表現を含むことも注意しておきたい。

ダイバーダウンの世界

ダイバーダウンの世界

 

2016年8月25日現在、AmazonのKindle Unlimitedでも読むことができる。

興味深い実験小説に巡り会えたことに感謝して、この場を借りて作者にお礼申し上げたい。

(了)

*1:博士について詳しく知りたい人は夢野久作『ドグラ・マグラ』を読もう。

「あなた」と呼びかける文体はすべて「わたし」へと置き換えられる

アフィリエイトでもブログでも、コピーライティングでも良いのだけれど、読者に「あなた」と呼びかける技法が人気を集めている。読者の心を揺さぶりやすい、というのが主な理由だろうか。

たしかに、

  • あなたはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思いませんか?
  • あなたはWebライティングの単価のあまりもの低さに絶望してはいませんか?
  • あなたは友達や恋人も作らず、孤独に過ごす毎日に満足していますか?

みたいな感じで、文の頭に「あなたは」をくっつけて呼びかけられると(お、おおぅ……もしかして俺のことを言っているのか)とめちゃくちゃ動揺してしまう。記事の下のほうに、なんか良い感じの情報商材のリンクが貼ってあったら、うっかりクリックしてしまうかもしれない。

このように、読者に対して「あなたは◯◯ではありませんか?」と疑問を投げかけて、あらかじめ用意された答えへと誘導するレトリックを設疑法(せつぎほう)という。コピーライティングの世界では基本的なテクニックで、意図して使っている人は多いと思う。

ただ正直に申し上げると、僕は「あなた」と読者に呼びかけるタイプの文体が大の不得意で、避けている。自分のブログではもちろん、Webライターとして仕事を受けるときでも、極力使わない。

というのは、このレトリック。効果が強すぎるのだ。相手の感情に、働きかけ過ぎる。街ナカでチェーンソーを振り回すようなもので、強すぎるレトリックは扱いが難しい。下手をすると自分が怪我をするし、相手を怪我させる場合もある。

僕はWebライターやアフィリエイターである以前に「小説書き」だ。小説文体に親しみがあるゆえに、文章中に二人称(あなた)を出すことにどうしても慣れない。だから設疑法を使う場面では、すべて「あなた」を「わたし」へと置き換えている。

じつはこれでも文章は成り立つし、場合によってはこちらの方が効果的なこともある。

「あなた」を「わたし」に置き換える具体例

冒頭に挙げた例文は次のように置き換えられる。

(Before)

あなたはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思いませんか?

ならば、あなたは従来の考えを改めて次のようなノウハウを実践しなくてはなりませんね!

(After)

わたしはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思った。

だから今までの考えを改めて、次のようなノウハウを実践してみた。

文章の効果はさておき「あなたは~しなさい!」と言うよりも「わたしは~したんだ」と言った方が押し付けがましさや上から目線感がないし、なにより主語が一人称であった方が書きやすい。

あなたはスーパーでレタスを買うとき、まさか「重いものの方が新鮮だ」と思い込んで選んでいませんか? じつは逆なんです!

と書くのか、それとも

わたしはスーパーでレタスを買うとき「重いものの方が新鮮だ」と思い込んで選んでいた。まさか逆だったとは……。

と書くのか。

どちらが効果的とは言えないし、優劣もつけられない。

けれど、もし読者に「あなた」と呼びかけることに苦手意識があるのであれば、ぜひ後者の方法もあることを知っておいて欲しい。良し悪しではなくて、純粋に書き手の「向き不向き」の話。自分にあった方を選ぶと良いと思う。

(追記)

ただし両者では、読者にもたらす感情のベクトルが180度異なる。

例えば「あなたはまだ東京で消耗してるの?」と言われたらなんだかムッとしてしまうだろう。コピーライティングでは読者の「怒り」「怖れ」「不安」の感情をうまい具合にポジティブな方向へと誘導していく。(だからこそ設疑法は難易度が高い)

対して「わたしはまだ東京で消耗してるのか…」と書いたらどうだろう。こちらは読者の「共感」「同情」「感情移入」の気持ちを引き起こし、物語体験に没入させて引っ張っていく。(共感させるのに失敗すれば、読者にとっては《他人事》の話となってしまう。その意味では、同様に難易度が高い)

どちらが正しい!というわけではないから、自分の得意な書き方を見つけよう。もちろん、二刀流も可。

(なお、上記の例えはプロブロガー、イケダハヤト氏のサイト『まだ東京で消耗してるの?』を参考にしたもの。『まだ東京で消耗してるの?』は設疑法であり、見た者に強い印象を与えることに成功している。かなり戦略的に作られたであろうサイトタイトル。追記ここまで)

繰り返すけれども、読者に「あなた」と呼びかける文体はすべて「わたし」へと置き換えられる。ただ、これだけを伝えたかった。

レトリックを扱ううえで気をつけていたいこと

最近は文章術についていかがわしいノウハウ書籍が増えてきて、

  • 人の心を操る文章術!
  • コピーライティングで洗脳する方法!
  • 読み手の心を動かす魔法の言葉!

といった感じの、思わず眉をしかめてしまうタイトルのものが出てきている。

もしも「言葉で人の心を意のままに操れる」と考えるならば、それは大変危うい思想で、文章術の闇に飲み込まれる恐れがある。そのような催眠技法が可能か不可能かと問われれば、可能ではある。やろうと思えば、相手の恋愛感情さえも操れる。

だが、危険なのだ。

いたずらに読者の心を動かすのは、本当に。

一歩間違えれば、自分が言葉の刃に絡め取られて、しっぺ返しを食らう。

レトリックを扱う者の基本姿勢として、決して忘れてはならないこと。

レトリックは、相手の思考や感情を都合良く操ったり、催眠をかけるためのものではない。

自分の伝えたいことを、読者により良く伝えるための技法なのだ。

これだけは、どうか――。忘れないで欲しい。

(終わり)

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レトリックを身につけよう!(楽しいピクニック編)

レトリックが小手先のテクニックだと思われるのは、悲しい。レトリックは「書くこと」そのものである。レトリックを知れば、文章を書くのは楽しくなる。

はっきり言って、僕のような、ライターを本業としている者であっても、原稿を書くのは苦しい。とても苦しい。「あぁぁぁああ、うまく書けないよぉ!!」と頭を抱えてベッドの上をのたうち回るのは、日常茶飯事だ。

「俺って適性がないのかな……」と思い悩むことだってある。文章のセンス、切れ味、上を見れば果てしなく、自分のちっぽけさが惨めになってしまう。

それでも、僕は、良い文章が書けることを知っている。それは自分の文才を信じているからではなくて、偉大なる先人達が築き上げたレトリック(修辞技法)の素晴らしさを信じているからである。

自分の才能に自信が持てないのなら、レトリックの神を味方につけよう。きっと、僕たちの良き友となってくれるはずだ。

レトリックは使いこなすと楽しい「道具」

楽しいピクニック

今日は「ピクニック編」と題して、6つのレトリックをご紹介したい。どれも使いやすいものばかり。小説、ブログ、アフィリエイト(?)あらゆる場面で活用できるはず。

最初のうち、意図的にレトリックを使うのは、何だか気恥ずかしい感じがすると思う。その「恥ずかしさ」が大切。小説や文学といったものは僕に言わせれば「恥の昇華」に他ならない。恥ずかしくても大丈夫。黒歴史なポエムをいっぱい書いているうちに、文章はうまくなる。僕もがんばる。

例文:今日はいい天気なので、ピクニックに行きます。

(お題)レトリックを使って、上の文章をおもしろくしてみましょう。

「今日はいい天気なので、ピクニックに行きます。」まさに退屈しそうな文章の典型例だけれども、これをなんとか読ませるものに変身させたい。以下に回答例を示し、レトリックの紹介をしていこう。

1.情報待機――「謎」で読者を引っ張る技法

 今日、私がどこに行ったのか。あなたがそれを知れば、驚きに腰を抜かすに違いありません。朝起きて、何気なく窓を開けて、空を見上げたんです。澄み切った青い空に、一片の雲が浮かんでいました。雲は私に語りかけます。「さあ、ピクニックに出かけよう!」と。

情報待機は、出すべき情報を先送りにして、読者の気を引く技法だ。例えばミステリー小説では「誰がどうやって相手を殺したのか」という肝心要の情報を隠しておいて、読者を「謎」で引っ張る。

「あなたが成功する方法を教えます!」みたいな自己啓発書だって、肝心のノウハウ開示を徹底的に引き延ばす。

(自己啓発書と情報待機の例)
  • 冒頭――ああ、なんてこの本は素晴らしいのかしら。これを読んだら人生が変わるに違いないわ!(他者からのレコメンド文で期待を持たせる)
  • 第一章――作者がどのようにドン底から大富豪へと成り上がったか。(筆者の成功体験談で期待を持たせる)
  • 第二章――今までのやり方、一般に考えられている常識的な方法が、どれほど間違っているか。(不安を煽って、次の章への期待を持たせる)
  • 第三章――作者のノウハウを実践することによって得られる素晴らしいメリットの数々。(未来を想像させ、やはり次の章への期待を持たせる)
  • 第四章――ノウハウについて(ようやくここから本題が始まる)
  • あとがき――肝心のことが知りたかったらセミナーに参加しましょう!(オチ)

このような構成を取る自己啓発書もあるが、えげつない。情報待機では読者の「知りたい」という欲望を逆手に取って、どこまでもどこまでも引っ張ってゆく。

縦にやたらと長いセールスレターも、長々とエピソードを読まさせる構造だ。肝心の商品とその値段については、最後の最後に書いてある。

「わざわざ貴重な時間をつかって広告文を読んだのだから、これは買う価値のある商品なんだ」と思い込んでしまう心理(認知的不協和)が働き、読者はついつい書き手の目論見に乗せられてしまう。

ピクニックに行く文章の場合は「どこへ行ったか」「誰と行ったか」などの情報を隠して引っ張れば、原稿用紙5枚分くらいは読者の気が引けるだろうか。(なかなか厳しい)

情報待機

2.対照法――結びつけて「意味」をもたらす

 晴れやかな青空の下、どんよりとした心をそのままに、僕はどこへ向かうべきかを決めかねていた。時間はいくらでもある、はずなのに。シロナガスクジラよりも大きな雲がゆっくりと空を泳ぎ、ちっぽけな人間の僕があくせくと走り回らなきゃいけない。

 頭のなかで、二つの声が同時に響いた。

「ピクニックに行こうよ」「ハローワークに行かなきゃ」

対照法はその名の通り、物事を対照させながら話を展開していく手法。

ここでは

  • 晴れやか/どんより
  • 青空/心
  • シロナガスクジラよりも大きな雲/ちっぽけな人間
  • ゆっくり/あくせく
  • ピクニック/ハローワーク

と、反対の概念を結びつけて、比較させながら描写する。

本来「いい天気なので、ピクニックに行きます」の前半部分、つまり「天気の話」は余計で、削ったほうが良いのかもしれない。

ピクニックに行くからには「いい天気」であることは明白だ。書かなくても、読者は予測できる。「生憎の曇天で~」とでも断り書きのない限りは、晴れているに決まっている。分かりきっていることは、書かない方が潔い。

だからこそ「天気」の話を出す以上は、それそのものに何らかの情報的価値が欲しい。例文の対照法は、風景描写と心理描写とを結びつけることで「どうでもいい天気の話」に意味を持たせようとしている。

対照法

3.語順操作――乱して「リズム」をつくる

 走っていた。行かなければならない。今日こそは。絶対に。一天鏡の如く晴れ渡る、空の明かりが告げる。急げ。間に合わなくなるぞ。行くのだ、ピクニックへ。私は必ず今日中に、まだ太陽のあるうちに。

語順をめちゃくちゃにして、読者をびっくりさせてやろうってレトリック。小学校の国語で習う「倒置法」も語順操作の一種だといえる。

文法的には正しくなくても構わない。文体にリズムやメリハリをつけたり、異常な心境を表したいときに、語順操作は役に立つ。

語順操作

4.皮肉法――褒めて貶し、笑って泣く

 康夫が精算を済ませてラブホテルを出ると、外はバケツをひっくり返したような雨だった。愛人を駅まで見送って、その姿が見えなくなるのを確認する。康夫は雨傘に隠れて、ほっと口元を綻ばせた。

 アレは、いい女だった。

「……あなた」

 背後から誰かが呼ぶ。まさか、と思って振り返る。

 目の前にいたのは、妻、信子であった。

「お、おまえ……ど、どうしてここに……」

「いいお天気だったので、ピクニックに行ってきましたのよ」

 信子は雨に全身を濡らしたまま、抑揚のない声で答えた。

皮肉法、または反語法。

ちょっと例文が相応しい例かどうかは自信がない。皮肉法では「言っていること」と「思っていること」が正反対となる。読者は暗黙のうちに、言葉の真意を悟ることとなる。

皮肉法は侮れない。読者の感情を揺さぶる強力なレトリックでありながら、文体にはユーモアをもたらす。例えば、はてなのトップブロガーにも、皮肉法を巧みに操る文彩のエキスパートの方々がたくさんいる。

「美味しそうな料理だね」「あら、お上手ですわね」「ユニークで独創的なアイデアだ!」どのような褒め言葉も皮肉法を前にすれば、正反対の意味となってしまう。恐ろしい恐ろしい。

皮肉法

5.誇張法――オーバーリアクションによるユーモア

 嗚呼、なんて素晴らしい天気なのだろう。肌を優しく包むように暖かい。陽の光を浴びるだけで、僕は今にも目が眩んで昇天してしまいそうだった。ガラス越しの光でこれほど気持ちいいのだ。嗚呼、外へ出たい。

 二つの脚がムズムズと出発のときを待ちわびている。どこでも良いから、行くのだ。エベレストの頂上でも、ブダペストの王宮でも構わない。心が外へ飛び出たがっている。

「ピクニックだ!!!」

 僕は絶叫して、病室のドアを蹴飛ばした。この閉塞したセカイをぶっ壊してしまえ。

誇張法はとにかく、大げさに、オーバーリアクションに表現することでユーモアを誘う文彩だ。

慣用句にも誇張法を用いたものが多い。「猫の額ほどの庭」「目に入れても痛くない可愛さ」「ラクダを針の穴に通すくらい難しい」「嘘ついたら針千本飲ます」など。

 小説における誇張法の実例を示したい。

 それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人じみたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。

(引用:夢野久作『ドグラ・マグラ』青空文庫)

 さすが夢野久作……。上記の文章は、化物を描写しているのではない。異様ではあるけれど『人物』のようすを描いている。「巨人」「馬のように長い」「瀬戸物のように生白い」「クジラのような眼」すべて、誇張法となっている。

 読めば分かるとおり、誇張法は明喩や暗喩を伴うものが多い。

 ドグラ・マグラは青空文庫で無料で読めるので、ぜひ読もう!(めっちゃ面白い)

誇張法

6.列挙法――執拗に並べ立てて描写する

 ピクニックに行こう。透明な空、ゾウの形をした雲、そよ吹く風、アブラゼミの鳴き声、向日葵の香り、固く結ばれた靴の紐、凍ったペットボトル、あらゆる世界のすべてが私を肯定し、足は大地を蹴り、腕はぶんぶんと振られ、唇は陽気な歌を口ずさむ。

 大自然に導かれ、誘われるままに、私はピクニックへと向かった。

列挙法では次から次へと言葉を並べ立て、圧倒する。必然的に描写はしつこくなるのだけれど、そこを武器とする。

そう、レトリックは僕たちにとって頼もしい武器であり、使いこなすと楽しい道具であり、ときとして他者を救う薬ともなれば、他者を苦しめる毒ともなる。繊細で、大胆で、我が儘で、優しくて、強固で、不安定で、扱いづらいことこの上ないけれど、その力に溺れてしまわずに、書くことを愛し続けるのであれば、これほどに良き友はいないのだから、僕たちはレトリックをもっと好きになったっていいのである。

……みたいな文章が、列挙法の例となる。じつは列挙の文彩だけでも10種類近くの分類があり、レトリック沼は深みにハマると抜け出せなくなる。

列挙法

本格的にレトリックを学びたい人は

がおすすめ。(入門→発展)の並び順。

(終わり)

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