第一回「文学フリマ京都」に初めて出店参加した話
一月二十二日(日)に開催された、文学フリマ京都に出店参加した。サークルとして出店するのは今回が初めてで、就活の面接並みに緊張をする。ポストカードに販促用のキャッチコピーを書こうにも、手が震えてしまってまともに線が引けない有様だった。
幸い、隣のブースの方が気さくに話しかけてくださり、打ち解けたフレンドリーな空気に幾分か緊張感が和らいだ(当日はお声掛けくださって本当にありがとうございました)。
文学フリマが素晴らしいのは、頒布作品の数々から「自分の好きなものを書くんだ!!」という情熱が伝わってくるところだ。この話は去年の九月に行った『文学フリマ大阪』のレポートでも書いた。
文学フリマ京都には《妖怪変化・もののけ・常世》という京都ならではの出店ジャンルがある。僕も「不思議系ショートショート集」と「退魔師を題材とした百合小説」を持って行くため、このジャンルで出店した。
同じジャンルのブースを見てまわっていると、民俗学・神話・妖怪・七福神・幽霊など、各々の探求分野は違えども、本当に専門的かつニッチな文学作品が並んでいて、ほとばしるパッションのようなものをひしひしと感じる。これは書店の(商業作品の)棚では決して味わえない感覚で、文フリの醍醐味と言える。
(写真は当日配布した本。B6判二段組、118ページで1冊500円。製本所は『ちょ古っ都製本工房』を利用)
さて、弊著『創作怪異物語』は有り難いことに二十部も売れた。五部も手に取ってくれれば十分だろうと考えていただけに、これは大きな驚きだった。さらに無料配布の『Web小説バケユリ』の読書案内カードは八十枚も配布できた。二つ合わせてなんと百部も配れたのだ。
喜びが込み上げると同時に、恥ずかしいような申し訳ないような気持ちで一杯になる。
もっと良いものを書かなければいけない。
もっとうまく書けるようにならなければ。
「五条さんは今後はどのような方向性で書かれるのですか?」
あるとき、ブースに来たお客さんからこのような質問を投げかけられた。彼は立ち読みをしていた『創作怪異物語』を長机に置き「こちらは純文学系のショートショート集ですよね」と確認する。そして机の右側の『バケユリ』読書カードを持ち上げて「こちらはライトノベル系の百合小説ですよね」と続けた。
僕は返答に詰まり、頭の中で「うーむ」と悲鳴のような唸り声をあげてしまう。
僕は文章を書くのが好きだ。だから、何でも書いてきた。Webライターを仕事としているし、趣味の小説でもミステリーからアダルト小説に至るまで、あらゆるジャンルに挑戦し(その数だけ挫折を味わって、それでも)書き続けてきた。
ケータイ小説の投稿サイト『魔法のiらんど』で少女向け恋愛小説を連載したこともあれば、男性向けハーレム官能小説を電子出版したこともある。
何でも書けるといえば聞こえは良いが、そのじつ、自分の書きたいことが分からず迷走しているだけなのだ。
ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの著作に、次のような一節がある。
「ともかく、君たちが望むことをやれ。――だが、その前にまず、望むことのできる人間になれ!」
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』丘沢静也・訳/光文社古典新訳文庫 p.54)
物書きに向けた言葉に置き換えてみようか。
ともかく、君たちが書きたいことを書け。――だが、その前にまず、書きたいことを持てる人間になれ!
僕が「百合……これからの時代は、百合小説が来るのではと思いまして……」としどろもどろに答えあぐねていると、お客さんはそれ以上の追及はせず「では一部ください」と微笑んで、五百円玉を手渡してくれた。
文学フリマ京都は午後四時をもって終了となる。主催者の方が閉会の辞を述べ、参加者一同の盛大な拍手で締めくくった。手を叩く音のなか、僕の頭のなかでも声が鳴り響く。
君は何のために小説を書く?
君は何が書きたい?
その後、同じく出店参加していた方とマクドナルドで創作談義し、別れてからはひとり、彷徨うオバケのように京都散策をする。神戸方面の新快速電車に乗った頃には、日がすっかり暮れていた。
神戸に着いたのは夜の九時で、駅前のラーメン屋で夜食とする。カウンター席に座ると、店主のおじさんがやたらと『生姜ラーメン』を薦めてくる。今年の新作らしい。
喉にじんとあたたかく沁みる生姜のスープを啜り、自分はどんな小説が書きたいのかをひとりで悶々と考えた。割り箸で麺を掻き分けてみると、チャーシューが五枚も入っているではないか。
そうだな、小説を一冊千円で売るとなると、少なくともこのラーメンと同じくらいの幸福感をお客さんに届けなければいけないわけだ。それは途方もなく難しいことで、簡単じゃない。店主の並々ならぬ努力の日々を思うと、ラーメンの一杯がまことに恐ろしい創作物に思えてきた。
店を出て、冷たい風に当たる。星は雲に隠れて真っ暗だった。僕はまだ、小説の書き方がわからない。次回の文学フリマに参加するときには、自分なりの答えを見つけておきたい。
(了)