このブログと筆者について
当ブログ『Webライターとして生きる』は2016年01月18日に開設された。ここまでブログを続けてこれたのはひとえに読者の皆様のおかげであり、この場で深く感謝を申し上げたい。
【目次】
当ブログの目標
当ブログは、文章を書く《楽しさ》を伝えることを目標としている。もちろん、Webライターとして生計を立てるには、楽しむだけではいけない。記事を書いて収入を得る方法論や、筆力を伸ばす技術論が必要となるだろう。
けれども、僕たちは最初に考えた方が良い。どのような文章を書いたら、自分を幸せにできるのかを。読者について思い悩むのはその先のレベルの話で、マネタイズについて頭を抱えるのはもっともっと先の話だ。
まずは、書く楽しさを見つけよう。僕はブログを通じて、その手助けがしたい。
第一目標:《書く苦痛》からの解放
書く苦しみは大きく2つに分けられる。ひとつは「書きたくないことを書く苦しみ」であり、もうひとつは「書けない苦しみ」である。楽しむためには、両方の苦痛を取り除く必要がある。
自分の書きたくないことを無理矢理に書いて、苦しんでいる人たちがいる。お金のため、生活のため、評価されるため、僕たちは時として自分の意思に反する記事を書いてしまう。良心を捨て、仕事だと割り切り、読者を騙し、自分をも騙す。
僕もかつてはアフィリエイト会社の内勤ライターをしていて、ブラックな記事をたくさん書いてきた。フリーランスとなって独立してからも、良心に反するような記事の制作依頼は数多くあった。
ライターが書きたくもない記事を書くのは、ひとつの悲劇だ。(アフィリエイターでも、ブロガーでも、小説家でも同じである)
書くことで苦しまなければならない理由は、なにひとつない。
僕は「書きたいことを書こう」と強く主張したい。
ともかく、君たちが望むことをやれ。
――だが、その前にまず、望むことのできる人間になれ!
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』丘沢静也 訳/光文社古典新訳文庫 p.55)
何のためでもない。書きたいから書く。
君の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ。(p.89)
われはかく望むがゆえに、かく命ずる。(p.91)
(引用:カント『実践理性批判(1)』中山元 訳/光文社古典新訳文庫)
書くべきことを書く。ただ、それだけである。
しかしこのような理想論を語ったところで「そんなのは綺麗事にすぎない。現実を知らない馬鹿だ」と鼻で笑われる。
理想論を現実論に変えるためには、確固たる《知識》と《技術》が必要である。それを考えていくのが「Webライターとして生きる」を命題とする当ブログの役目である。
第一目標「書く苦しみ」を「書く楽しみ」へ。
第二目標:《書けない苦痛》からの解放
物書きを悩ませるもうひとつは「書けない苦しみ」である。
なかなか思うように書けない苦しさはよく分かる。けれども、プロの物書きだってうまく書けないことを悩んでいるし、そしてうまく書けるよう努力している。だから「私は文才がないのであなたが羨ましいです」と僻んではいけない。他者と比べる前に、自分を磨こう。
文章は技術である。《文彩》は後天的に獲得可能な知識であり、レトリック(修辞技法)を自分のものとすれば、文章はいくらでも上達する。《技》を知れば知るほど、書くことは楽しくなる。
自分の伝えたいことを「より良く」表現するための技法がレトリックだ。身に付けるのは決して小手先のテクニックではない。当ブログでは「楽しく書き、楽しく読ませる」ための、本質的な創作技術論を紹介していきたい。
第ニ目標「書けない苦しみ」を「書く楽しみ」へ。
筆者について
ペンネームは五条ダン(ごじょうだん)。Webライター4年目。なんとか物書き一本で生計を立てられている。
紙媒体では出版経験もなく、まったく有名な人ではない。無名のライターである。まだまだ物書きとしては未熟であり、研鑽を積んでいきたい。
好きな生き物はナメクジ。Who goes slowly goes far.(ゆっくり歩むものが遠くに行く)が座右の銘。
もともと五条ダンは小説投稿用のペンネームで、小説家になろう/カクヨムでは短編小説や長編小説を掲載している。関西圏の文学フリマにも時々出没するので、もし見かけたときは是非お声かけください。
冗談のようなペンネームだけれども「五条ダン」の名前を記憶の片隅にでも覚えていただけたならとても嬉しく思う。
(余談だが、たびたび登場する水色のオバケみたいな何かは《ナメクジオバケ》という名前の当ブログマスコットキャラクターである)
仕事依頼について
当ブログでの記事広告や、五条ダン名義での寄稿依頼等ございましたら、お問い合わせフォームにてお気軽にご相談ください。
ご依頼に基づくWebサービス等の紹介記事につきましては、記事タイトル先頭に【PR】表記をつけ、記事広告であることを明記いたします。また、リンクについてはnofollow設定をいたしますことを予めご了承ください。
大変恐縮ながら、アフィリエイトやSEO等を目的とした匿名記事の代筆につきましては、現在ご依頼をお断り申し上げております。
広告について
当サイトは、amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、 Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。
また、A8net、もしもアフィリエイト等のアフィリエイトプログラム、およびコンテンツ連動型広告配信サービスであるGoogle AdSenseを利用しています。
連絡先
Twitter(五条ダン/@5jDan)やってます。創作系のツイートがメインです。
フォロー&リムーブはお気軽にどうぞ。
お問い合わせ用のメールフォームはこちらとなります。(返信が必要なものについて)もし3日以内に返信が届かない場合は、Twitterの方にご連絡くださいますと幸いです。
ブログ記事へのご意見やご感想などございましたら、お気軽にお寄せください。
『Webライターとして生きる』を今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
(五条ダン)
【書評/自己啓発書の楽しみ方】ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。
「僕の人生を変えた◯◯冊の書籍」といったタイトルで、自己啓発書のラインナップをお勧めすると、手斧を持ったはてなブックマーカーがやってくる。彼らは「いい年してそんな本しか読んでいないとは嘆かわしい。低俗な自己啓発書に身をやつしていないで古典文学を読め」と説教をする。
似たようなことをショーペンハウアーも言っていて、彼のほうがさらに毒舌である。次から次へと出版される「凡俗な新刊書」を『毎年無数に孵化するハエのようだ』と形容して、そんな本は投げ捨ててしまえ!とさえ言っている。
詳しくはショーペンハウアー『読書について』(鈴木芳子 訳/光文社古典新訳文庫)を読むといいだろう。創作者には大いに役立つ劇物である。
おっと、大幅に話が逸れた。今回ご紹介するのは『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』(マイク・マクマナス 著)だ。
Amazonには157件のカスタマーレビューが並び、5つ星の絶賛コメントで溢れている。いわゆる、自己啓発書である。
1.自己啓発書はつまらないのか
僕の読書スタイルは「超」雑食で、純文学、海外文学、ライトノベル、ケータイ小説、ボーイズ・ラブ、百合、ありとあらゆる書物を好む。そのなかでも自己啓発書は好きで、一時期中毒になっていた。
もちろん、自己啓発書を読んだからといって、人生が好転したりポジティブ人間になったりはしなかった。本は、そう簡単に人を変えたりはしない。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を三回目に読んだときは流石に何かが変わりそうな気はしたが……。
それでも自己啓発書が面白いのは「読者を変えてやろう」という気概が感じられるからである。実際に読んだ直後はかなり良い気分になれるし、そのように感情を突き動かせるだけで相当な筆力である。
「ソース」は少なくとも、物書きとしては勉強となる部分が多い書籍であった。すなわち、いかにして読者にポジティブな気分になってもらうか、という技術が籠められている。
2.レトリックを受け止める
本作から一箇所のみ、それもまったく重要ではない、何の変哲もない一文を引用してみたい。(できれば下の引用文章を3回ほど繰り返して読んで欲しい)
テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。
(引用:ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。 Kindle版 マイク・マクマナス 著/以下同)
(補足:著者は自宅のテラスを自分の手で作りました。著者は不器用ながらも、大工仕事が好きです)
引用部分だけではわかりにくいかもしれないが、著者は上記のエピソードを通じて「得手不得手を言い訳にせず、やりたいことをやるべきだ!」という教訓を示している。
《抽象的な主張》を《具体的なエピソード》に仮託して、文脈を通じて読者に(暗に)教訓を伝える。このようなレトリックを諷喩(ふうゆ)という。
もっとも、このあとで著者がエピソードに籠めた意味をタネ明かししまくっているので、厳密には諷諭とは言えないかもしれないが、自己啓発書では諷諭がよく用いられる。
自分が作ったテラスの歪みを「まるでラクダの背中のよう」と形容する。これは直喩の技法だ。それにしても、何故ラクダなのだろうか。ヒトコブラクダでもフタコブラクダでも構わないけれども、ラクダの背中は相当にきつい曲線を描いている。
もしも本当に「ラクダの背中のような」テラスを作ってしまったら、それこそ立っているのも難しいだろう。
ゆえに上記の「ラクダの背中のような」の直喩は、歪んでいることをかなり大げさに(オーバーリアクションに)表現している比喩であることが分かる。このようなタイプのレトリックを誇張法と呼ぶ。
誇張法がもたらす効果はユーモアであり、簡単に言えば文章を楽しくさせる。もしも上の引用文章が次のようだったらどうだろう。
テラスはあちこち歪んでいました。お話にならないほどひどい代物です。(改変例文)
ほら、ラクダの比喩が無くなっただけで、随分と文章が暗い感じになるでしょう? ところが、ラクダを間に挟むと、ユーモアが出て明るくなるのです。これが、レトリックの偉大なる効果だ。
自己啓発書は、読者をポジティブな気分にさせることを目的とする。ポジティブにさせるには、笑わせるのが一番だ。笑ってもらうのに、レトリックは大いに役立つ。
引用例文は、読む人をなるべく暗くさせないようにしよう、という「読者への配慮」が見られる。大いに見習いたい。
そろそろくどくなってきたけれども、さらに解説を進める。
(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)
引用例文の丸括弧でくくられた一文。これも立派なレトリックで挿入法という。(ちなみに、丸括弧のことを『パーレン』と書くと、通っぽくてカッコイイ!)
↑ みたいな文章がまさに挿入法で、このレトリックでは文章の流れを一旦せき止める。そしてあまり重要ではない(?)文章を挿し入れることで、文の雰囲気を整えることを目的とする。
例文では、丸括弧の直前にある
お話にならないほどひどい代物です
の一文がけっこう強い言葉で、読者の心証を考えるとバランスを取りたくなる。「ひどい」の形容詞が、ネガティブなイメージを無意識化に与えてしまうかもしれない。
そこで「ひどい」を中和する語句として「笑い」を入れておきたい。すべては読者をポジティブにさせるためである。
もう一度、引用例文を眺めて欲しい。
テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。
読者のことが考えられた、よくできた文章である。
「歪んだテラス」と「ラクダの背中」
「お話にならないほどひどい代物」と「腹を抱えて笑う」
ネガティブなイメージとポジティブなユーモアが見事に調和し、文章全体としてバランスが保たれているのが分かるだろう。
自己啓発書を馬鹿にする人は、自己啓発書が「読者を良い気持ちにさせよう」とする技術と執念の力を甘くみている。ここで挙げた例文は、たまたま目についたふつうの一文に過ぎない。
3.速読では見つけられない面白さ
悲しいことに、自己啓発書はパラパラーっと流し読みにされることが多く、精読される機会は少ない(かもしれない)。
世の中には、本を早く読もう!をモットーとする『速読術』が溢れている。速読も役立つことはあろうし、否定はしない。
でも、立ち止まらなければ見つけられない面白さが、読書には存在する。自己啓発書に限らず、純文学でもケータイ小説でも、虫眼鏡で観察するようにして文章を読んでいくと興味深い発見が多い。
僕はこれを『ミクロの読書術』と呼んでいる。文章を扱う仕事を目指す人は、ぜひミクロの読書術を試してみて欲しい。「木を見て森を見ず」と言われるけれど、ときには「葉の細胞」を見ることが役立つこともある。
4.結局、書評はどうなったの?
タイトルに『書評』と書いておきながら、未だに内容に関する記載がない。だが、僕が今この瞬間、この文章を書いているのは、まさに本書を読んだからに他ならない。
『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』
タイトルのとおり、著者の主張は首尾一貫している。
つまり、自分のワクワクすることを今すぐ実行せよ!ということである。
僕は本を読んで、文章のレトリックを解析することが何よりもワクワクする。自分の発見したことをブログに綴るのは、もっとワクワクする。
今こうして文章を書いていることそのものが、本書に影響を受けた何よりの証拠で、これをもって書評とさせていただきたい。
(終わり)
※2016年9月1日現在は、Amazon Kindle Unlimited の対象本となっています。
依頼の受発注時に警戒すべき3つの心理テクニック
世の中には「人を思い通りに動かす」ための心理テクニックが溢れている。正直なところ、そのような下心をあからさまに押し出したタイトルの書籍を売るのはいかがなものかと眉をしかめる。本屋に並べられているところを見ると、需要はあるのだろう。
この記事では、仕事の受発注時に警戒しておいた方が良い4つの心理テクニックについて紹介したい。僕はWebライターをしているから、例に用いるのはWebライティング案件の委託受注に関するものが多い。
1.返報性の原理
返報性の原理(へんぽうせいのげんり)はすでにご存知の方も多いだろう。知名度がとても高い心理的原理だ。人は何らかの好意を受け取ると、そのお返しがしたくなってしまう。
試食品や無料サンプルなどで、まずは無償の《好意》を与える。スーパーの試食品コーナーに行くと特にそうなんだけれど「ただで味見させてもらったんだから、1個くらいは買っておこうかな」という気持ちになる。
返報性の原理は「海老で鯛を釣る」手法として、マーケティングでは幅広く用いられる。車の試乗だとか、記念品のプレゼントだとか、無料見積もりに無料相談会に無料査定などなど、たくさんある。
とにかく、何らかの「見返り」を求めて相手に好意をふりまくのが、この戦略のポイントである。
ここだけの話(今もやっているかどうか知らないが)アフィリエイターやブロガー向けのセミナーに行くと「返報性の原理」の言葉を耳にする。つまり「はてなブックマークを使っているブロガーさんを見つけたら、積極的に相手の記事をブクマしたりTwitterでシェアしたりポジティブなコメントをつけて、恩を売っておきましょう。そうすると返報性の原理が働いて、自分の記事にもお返しシェアやお返しブクマが集まりますよ」とセミナーでは語られる。
かれこれ2年ほど前の話なのだが、今もセミナーはあるのだろうか。互助会を一緒くたに批難するつもりはないが、見返り前提のブクマには首を傾げざるを得ない。
依頼者側が、ライターやイラストレーターに「返報性の原理」を使おうと思えば、とくにコストは必要とならない。なぜならば、承認欲求を満たしてやりさえすればそれが《施し》となるからだ。(ひどい話だが、このように考える人もいる)
悪筆なので上のイラストの、緑色のカニが何を話しているか読めなかったら申し訳ない。とにかく……
- あなたはとても素晴らしい、誠実な方です
- あなたのような素敵な方と一緒にお仕事ができたら、どれほど幸せか
- 圧倒的な文才! 迸るセンス! 芸術的な絵柄だ!
- あなたほどの優秀な人材を野放しにしておくのは勿体無い
みたいな感じで、とにかく褒め殺しにする。僕のような小説新人賞万年一次落ちの三文文士ワナビなんかは、褒め慣れていない。だから少し褒められると鼻が天狗になって、ほいほい相手の口車に乗せられてしまう。
セールスマンでも宗教勧誘でも「褒め上手」の人が相手だと、ついつい引っかかってしまう。
もちろん(この記事で誤解を与えなければ良いのだが)本心から褒めてくれる人、見返り目的でなく純粋に僕を評価してくださる依頼主さん、クライアントさんはいらっしゃる。本当に嬉しく思うし、心から感謝している。
だけれども、初対面でお互いのこともよく知らないのに、初っ端からやたらめったらと褒め殺しにしてくる人もいる。そのような相手とビジネスをして、良い結末を迎えたことがほとんどない。
「正当な理由がないのにむやみやたらと褒めてくる相手」を僕は一番警戒している。自分を理解してくれる都合の良い人間は、そうそう簡単に現れたりしない。そんな甘い話はない。
「下手に褒めると警戒される」というのも、頭の片隅に覚えておくと良いかもしれない。なにせ「返報性の原理」は広く知れ渡っているので、当然相手方も知っている可能性が高い。甘い言葉には裏があるんじゃないか……と警戒心を与えてしまうくらいであれば、お世辞はそこそこに本音でぶつかっていった方が良い。
《返報性の原理》は言われるほど使い勝手の良いテクニックではない。使う方も使われる方も、注意が必要だ。
2.ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック
ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックとは、まず相手に無茶な要求を突きつけておいて「あえて断らせてから」次にもう少しマシな要求(こちらが本命)を提示し、条件を受け入れさせるテクニックである。
例えば、
依頼主「1文字単価0.1円で記事書けますか?」
ライター「申し訳ありませんがお引き受けいたしかねます」
依頼主「じゃあ、0.5円でどうですか。お願いします!」
ライター(うーん…本当なら断るところだけれど、せっかく5倍まで単価上げて譲歩してもらったし、2連続では断りづらい……)「わかりました。その条件で承ります」
といった感じに話をもっていく。人間は直前に提示された条件に引きずられてしまう(アンカリング効果)から、最初に高い要求を突きつけられると、価値判断能力が麻痺してしまう。
かくいう僕も、露店で呼び止められて「お客さんラッキーですねぇ。この腕時計、本当は1万円なんだけど、今は閉店セールで大特価90%OFF!! 1000円で売ってあげます」とセールスされた。
ぱっと見、高級そうな腕時計に見えて(わあいラッキー!!)と思った僕は「ホントですか! なら5本ください!!」と見事に乗せられてしまった。もちろんその時計はブランドでも何でもないパチもんみたいな奴で、300円の価値があるかさえ怪しい。
おっと話が逸れた。ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはこのようなパターンもある。
依頼主「ところで明日までに納品をお願いしたいのですが」
ライター「いや…さすがにそれは急過ぎて、難しいです……」
依頼主「うーん、なら3日後でどうですかね」
ライター(ふぇぇ…この作業量なら1週間は最低でも欲しいのだけれど、相手も譲歩してくれたしこちらも多少は譲歩しなければ……)「わかりました。その条件で承ります」
そう、このテクニックは「相手にわざと断らせてから、(本命の)譲歩の案を提示する。すると《譲歩》に対する返報性の原理が働いて、相手も条件を飲んでくれる」という心理に基づくものだ。
良さげな心理テクだが、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはひとつだけ致命的な欠点がある。
そもそも論として、初手で「相手に無茶な要求を突き付ける」という行為そのものが、相手にかなりの悪印象を与えてしまうのである。
依頼主「1文字単価0.1円で記事を書いてくれますか?」
ライター(ひぇぇ…多分関わったらマズイことになるブラッククライアントや…)「お断りします」
依頼主「なら0.5円で…」
ライター(関わらないのが得策やで…)「お断りします」
と、このようになる。これは警戒されて当然である。
ライター側の心得としては「1文字◯◯円を下回る仕事は絶対に受けない」とルールを決めておくと良いだろう。
3.ローボール・テクニック
ローボール・テクニックとは、最初に相手の受け入れやすい欲求を提示して、ひとまずの承諾を得る。その次に相手にとって不利な条件を(後出しジャンケン的に出して)欲求を飲み込ませる、えげつない心理テクである。
具体例を挙げてみよう。
依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」
ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」
依頼主「あ、原稿を書くついでに、見出しタグと強調タグとリストタグのマークアップをお願いしたいのですが」
ライター「分かりましたー!」
依頼主「良かった。あとついでに、記事のアイキャッチ画像もご用意いただけますか。フリー写真サイトから探してくだされば構わないので」
ライター「え…あ……はい」(もう仕事承諾してるし断りづらいな)
依頼主「それから、ここの部分は取材が必要となるので、取材についても込みでお願いしたいのですが」
ライター「……は、はい……」(ひぇぇ、ホワイト案件だと思ったらブラックだったよぉ)
別のパターンも見ておこう。
依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」
ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」
依頼主「ところでライターさん、Twitterアカウントとフェイスブックアカウントをお持ちでしたよね」
ライター「ええ持ってますよ」
依頼主「良かった。記事公開の際にご連絡差し上げますので、ついでにTwitterとフェイスブックの方でもシェアをよろしくお願いいたします」
ライター「えぇ……」
いずれの事例にせよ、すでに仕事を承諾したあとだと、後出しで不利な条件を出されたとき(雰囲気的に)なかなか断りづらくなる。
これは「コミットメントと一貫性の原理」が働くからだ。最初に「やります!」とコミット(約束)をすると、そのあとはコミットに対して一貫した態度・行動を取ろうと努力したくなる。
だから後付けで仕事の負荷を増やされても、そうそう首を横には振れない。
やられる側の対処法としては「とにかく安請け合いをしないこと」契約をする前に、どこからどこまでが業務範囲となるのか、しっかり詰めておく。それまではYESと言わない。
仮に、先に承諾をしてしまったのであれば、依頼主から追加要求を出された際に、こちらも追加料金を要求する。Webライターをしていると、ローボール・テクニックを使った依頼案件には引っかかる機会がけっこうあるので、注意されたし。
まとめ
「返報性の原理」「ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック」「ローボール・テクニック」はすべて、相手の感情・心理的作用に働きかける。
だから、仕事を引き受けるかどうかを「その場の感情」によって決定していると、相手の術中に嵌りやすい。自分の直感を信じよ!なんてビジネス書もあるけれど、契約の場で直感に頼るのは大変危うい。(人の心には容易く干渉できる)
だから「1記事◯◯円以上の仕事は受ける」「対応する範囲は◯◯まで」と明確なルールを予め設定しておくことをおすすめしたい。
追記しておくと、これらのテクニックが通用するのは「知識の非対称性」がある場合のみである。(あっこれはローボール・テクニックを使ってきてるな!)と相手側に見抜かれてしまえば、テクニックを使った側は信頼を落としてしまうことに繋がる。
今の時代、心理テクニックのノウハウ本なんて、そこらにゴロゴロ出回っている。「自分の知っていることは、相手もきっと知っている」と警戒して交渉に臨んだ方が、無難だろう。
僕としては、あまり心理テクニックに頼るのは推奨できない。本当にそのようなテクニックが万人に自在に扱えるものだとしたら、僕は今ごろモテモテのハーレムを手に入れているに違いないのだから。
(終わり)
後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない
アフィリエイトで成功するために、何よりも大切にしなければならないのは「己の良心」である。この一言に尽きる。お金を儲けるのは大いに良いことであるし、僕だって札束を扇子代わりにする生活には憧れている。
しかし、金のために良心を売り渡してしまってはいけない。
(どこぞと知れぬWebライターが綺麗事と理想論をほざいてやがるぜ…)と思われるかもしれないが、至って本気である。そもそも僕たちは、いつかかならず死ぬのだ。未来の成功とやらのために、今この瞬間の《生》を犠牲にしてどうする。
「自分が今ここに生きていること」を肯定できないような、後ろめたい行為はすべきではない。何度でも言う。
アフィリエイトでは何をやるべきなのか?
アフィリエイトサイトを作るうえでやるべきことは、すべて「~ない」という否定形で示せる。以下に箇条書きにする。
- 嘘をつかない
- 読者を騙さない
- 口コミや体験談を捏造しない
- 科学的根拠を捏造しない
- 薬機法(薬事法)に反する記事を書かない
- 公序良俗に反する記事を書かない
- 著作権や肖像権を侵害しない
- その他法令や社会的倫理に反する記事を書かない
- 読者の不安や怒りを煽って、誘導するようなことはしない
- ステマはしない
- 不当に(外注する)記事を買い叩かない
- ブラックハットSEOをしない
- ネガティブSEOをしない
- 他者への誹謗中傷をしない、悪口を書かない
- 他サイトを不当に貶めることで優位に立とうとしない
- 競合商品を不当に貶めることで商品を売りつけようとしない
- 夜中にこっそりリスティング禁止の案件を乗っけたりしない
- 売りたくもない商品を無理やり売ろうとしない
- 誤クリックを狙わない
- 過激なタイトルで釣ろうとしない
- 自分の良心に反するような記事は書かない
どれも当たり前のことばかりなのだけれど、その「当たり前」がいかに困難であり、貴重であるのかを僕はよく知っている。せっかくウェブサイトを作るだけの技術と知識があるのだから(社会貢献せよとは言わないが)自分が心から満足して幸せな気持ちになれるような、良いサイトを目指してほしい。
もう少しぶっちゃけた話
「稼ぐために手段は選ばない!」と本気で思うのであれば、ブラックな方法でサイトを作るのはなおさら得策ではない。想定が、甘い。なぜならば、競合する他者もまた「稼ぐために手段は選ばない」からである。
ネガティブSEOで低品質なリンクを相手に押し付けるよりも、はるかに簡単に確実に、競合を検索結果から蹴落とす方法がある。相手が、後ろめたい記事を書いているのであれば。
「◯◯サプリで◯◯病が治ります!」みたいな露骨な薬機法違反をやっているアフィリエイトサイトは、それこそ弱点丸出しの状態であり「どうぞASPと広告主に通報してください」とはらわたを晒しているのと同じである。
記事をリライトして検索順位を上げるよりも、相手をぶっ飛ばして順位を上げる方が簡単だ。そのような(自サイトよりも上位にあるブラックサイトを潰すことによって)自分の検索順位を上げようと企てる、アフィリエイターはそれなりにいる。
健康サプリ案件だと、やはり薬機法違反で攻めやすい。他のジャンルだと、著作権違反もわかりやすい。(あっ、この記事はあのサイトのパクリだ!)というのは、そのジャンルについて精通するアフィリエイターが見れば容易に見抜ける。
そのような弱みのあるサイトが競合であった場合、まずはサイトに記載されている連絡先にメールでコンタクトを取る。記事の問題点を指摘し、修正か撤回を求める。
多くの相手は記事の「削除」を選択する。記事が消えてくれれば、こちらの検索順位は(おそらく)ひとつ上にあがることだろう。
メールへの返信はさまざま。「外注したライターが書いたもので、チェックができていませんでした」と言い訳される場合もあれば、「共同運営のサイトで私が書いた記事ではないのですが、たしかにおっしゃるとおりですね。消しました」と謎の責任逃れをされる場合もある。返信はなく、しれっと記事だけ消されることも。
いずれにせよ、相手には後ろめたい感情がある。だから、競合記事は消される運命を辿る。
僕は、他者には甘い。だから(よっぽど悪質な奴を除いては)ASPに通報したりはしない。まずは、メールでコンタクトを取るようにしている。(ばんばん通報してやるぜ!!と好戦的なアフィリエイターさんもいます。もちろん)
PCデポの騒ぎのように、不誠実なビジネスを続けていれば、いつかはしっぺ返しを受ける。基本的に、アフィリエイターさん同士は仲が良いし「ライバルを蹴落としてやるぜ!」というよりかは「情報交換し合って共に儲けよう!」といった健全なコミュニティが形成されている。
しかし、仲間を大切にすることと、他者に甘いこととは話が違う。自分よりも検索上位にある競合サイトが、明らかに悪いことをしている。そりゃあもう、見逃している場合ではないでしょう。格好の標的です。
だから、何度も何度も繰り返す。後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない。自分の良心を信じて、良いサイトを作ろう。
(終わり)
【書評】三世留男『ダイバーダウンの世界』Kindle個人出版最高の奇書
できることならば、著者の三世留男氏にファンレターを送りたい。だが、連絡先が分からない。この場で「書評」として紹介することで、いつの日か著者の元へ届けばと願っている。
本日紹介する書籍は『ダイバーダウンの世界』(三世留男 著)。Kindleストアで個人出版されている短編小説集である。
KDP(個人出版本)は、はっきり言って面白い作品を見つけることが難しい。小説ともなれば、読むに耐えない作品も多い。そのなかで本作に出会えたことは、僕としては幸運だった。
本書は良作、には違いないのだけれど、奇書や怪書の類でもある。読者は、かなり選ぶ。どう考えても万人受けする物語ではない。しかし、商業出版では決して読むことの出来ない魅力が、この作品には詰まっている。
内容紹介
端的に述べれば「明晰夢」をテーマとした小説である。表題作『ダイバーダウン』と『タイムリープ』『マインドシーカー』の短編三部で構成されている。それぞれ物語としては独立しているが、相互に繋がりを持つ。
「明晰夢」は聞いたことがあるだろうか? 簡単に言えば、鮮明に覚えている夢のこと。夢か現実か区別がつかないほどの、リアルな体験。しかも、夢のなかにいる自分は「この世界が夢であること」を自覚している。
明晰夢は訓練によって身に付けることができ、極めれば自由自在に夢の内容をコントロールできる。例えば片思いの人や憧れのアイドルと、あんなこと【自主規制】やこんなこと【自主規制】をすることだってできるし、そのときに得られる性的快楽は本物(場合によってはリアルを超える)である。夢だけど。
「でも夢の内容なんてすぐに忘れるじゃん? 虚しいだけだよ」と思うかもしれないが、見た夢を忘れない訓練も、明晰夢を見るうえでは重要となる。修行を積めば、夢日記に頼らなくても、現実体験とまったく同じに、夢を記憶していることができる。
で、どうしてこのような話をしたかと言えば、本書は小説である以前に「明晰夢の指南書」でもあるのだ。明晰夢に興味がある人、明晰夢が見たい人は、本書で得られるヒントに従って練習すれば、きっと成功するはず。明晰夢の手引書としては、非常に有用な本である。
かくいう僕も、明晰夢を見ることができる。空も泳げる。巨大化してゴジラとも戦える。アイスクリームだって食べられる。夢の世界ではすべてが思いのままで、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、五感は現実のそれと変わらない。明晰夢の世界でほっぺたをつねると、ふつうに痛かったりする。
そのリアルな神秘体験は、凄まじい。今までの世界観念が、音を立てて崩壊するほどの衝撃だと思う。誇張ではなく、本当に。
本書ではそんな「明晰夢」を見ることをダイバーダウン(引用:ダイバーが素潜り中に息が続かなくなって意識を失う状態)という言葉を使って説明し、物語形式で夢見の技法のレクチャーをしてくれる。(いや、レクチャーと言えるほど親切ではなくて、ただ極めて重要なヒントを与えてくれる)
ダイバーダウンを軸とした「タイムリープ」の方法と、「マインドシーカー」(読心術)の方法についても、紹介している。本作で描かれる神秘体験は、基本的にはすべて実際に体験することが可能である。ゆえに、SFではない。
さて、ここまで読み進めて来られた読者は「もしかして怪しいオカルトトンデモ本じゃないの?」と訝しんでおられるかもしれない。うーむ、だからこの本を書評したり、他者に薦めるのは、大変な困難を伴う。
本書を純粋に、娯楽小説(エンターテインメント)として読んだ場合、それでも楽しめるといえば楽しめるのだが、どこか不可解さや後味の悪さが残るのではないかと感ずる。エンタメとしては、あまり良い構成ではない。
読者におすすめしたいのは「小説を書くとはどういうことか」を常に頭のなかで考えながら、本書を読解することだ。そうすれば、きっと創作のヒントが得られることと思う。以下に、僕の感じた「鍵」を残しておきたい。
なんのための明晰夢なのか?
明晰夢が見られるようになることで、なにかメリットがあるのか? 当事者から言わせてもらえば、じつはとくにない。毎晩、夢を見るのがちょっと楽しくなるくらい。明晰夢によって現実世界にプラスの影響を与えることは、難しい。
(余談だが、僕は明晰夢を使ってロト6を当てようと試みたことがあるのだが、すべて外れた。明晰夢はたしかに神秘的な体験ではあるが、予知夢のような超能力とは異なる)
それどころか、明晰夢は得てして、生活に悪影響を及ぼすこともある。僕は高校生の頃、明晰夢に大変ハマっていて、毎日夢日記をつけて夢分析にも興じていたのだが、メンタルは日に日に悪化していった。
夢は得てして、現実を侵食することがある。スピリチュアル系の本が嫌われるのは、その神秘体験に高い中毒性があり、人々の現実生活を脅かすケースがあるからである。
明晰夢がどれほどに素晴らしい体験であったとしても、現実に生きる我々は「夢」ではなく「現実」を選ばなければならない。自分を取り巻く世界が嫌で神秘体験に溺れるのは、現実逃避に他ならない。
では、僕たちはどのように明晰夢を活用すべきなのか。なんのための明晰夢なのか。
僕に言わせれば、夢とは人間が無意識的におこなう「創作活動」であり、夢はすべて虚構である。それならば、虚構の世界でこそ生かせば良いではないか。
明晰夢を見ることも、夢日記をつけることも(現実生活ではほとんど役立たないが)少なくとも、小説を書くうえではおおいに役立つ。
夢日記をつけていると、僕は気づくことがある。
夢の内容を思い出し、詳しく描写していく行為。これは、小説を書くことそのものである、と――。
本作の描写について
読みやすい文体であるが、もしかしたら描写がくどく感じられるかもしれない。文章から得られる情報量、情景・心理・行動描写が、一般的な小説よりも多い。これは僕の憶測では、意図されたものだと思う。
一部のシーンなどは、アクティブ・イマジネーション(能動的想像法)を使って描写されたのではないだろうか。考えすぎだろうか。
小説を書くこと
とにかく、もしも小説を書きたい人がいるならば「ダイバーダウンを応用して小説を書くことはできるか?」を念頭に読み進めていくと、発見が多いと思う。
あんまりスピリチュアル系の知識を披露すると読者にドン引きされるので普段は控えているのだが、本書に出てくる
- ダイバーダウン(明晰夢/白昼夢/体外離脱)
- タイムリープ(時間跳躍)
- マインドシーキング(読心術/自己投影術/人心掌握術)
をはじめ、
- アクティブ・イマジネーション(能動的想像法)
- タルパ(人工精霊術)
- セルフヒプノ(自己催眠)
- ネクロマンシー(降霊術)
などなど。
これらは決して超能力ではないから、この能力で宝くじを当てることはできないし、おそらく実生活で役立つ機会も少ないだろう。お金儲けに利用しようとすると、まず碌なことにならない。
無理に現実で活かそうと頑張れば、弊害も出てくるだろうと思う。(予知夢や第六感を頑なに信じるだとか、自己催眠でポジティブな性格に生まれ変わるだとか、おすすめできない。リンゴに毎日「ありがとう」と語りかけることも推奨しない)
ただ、確実に言えるのは、神秘体験は少なくとも「小説を書くこと」には活かせる。小説の世界観、キャラクター、物語を創るうえで、これらの神秘体験を得る技術は(ひとつの創作手法として)役に立つ。
なぜならば、小説を書くことそのものが、ある種の神秘体験だからである。
遅れた自己紹介
遅ればせながら、この記事を書いている僕が何者かについて、自己紹介をおこないたい。Webライターだとか小説書きだとか、属性はいろいろあるのだけれど、本書の作者とはひとつだけ、大きな共通項がある。
それは、正木敬之博士(九州帝国大学 精神病科教授)を師と仰ぐ者であること。著者は「思想物理学」を研究していたらしいが、僕の方は「虚構心理学」を探求していた。*1
著者と僕とでは、きっと目指す方向は異なるだろうけれども、同じ師を持つ者として、シンパシーを感じずにはいられなかった。こんなに長い書評(的な何か)を書いているのはそのためである。
ちなみに虚構心理学では、小説、漫画、アニメ、映画…etcの創作世界に住まう人物の精神分析をおこなうことを専門とする。架空人物の心理を研究するなんて、馬鹿じゃないのか?と思われるかもしれないが、大真面目だ。
思うに、我々生身の人間と、創作世界のキャラクターとの間には、決定的な差異がない。キャラクターもまた、実存的な存在である。読者に読まれるたびに「永遠回帰」する小説の登場人物などは、むしろ私たちよりも「明晰に生きている」と言えるのではないだろうか。
かくいう僕自身も、じつは虚構の産物から生まれた存在であったりする。それでも、僕はたしかに、今ここに生きている。
総括
この書評を読んで何かが引っかかる人(特に「明晰夢」のキーワードに惹かれる人)は、本書を読んで後悔はしないと思う。繰り返すけれども、読む人を相当に選ぶ。付け加えて、物語の一部に性的な表現を含むことも注意しておきたい。
2016年8月25日現在、AmazonのKindle Unlimitedでも読むことができる。
興味深い実験小説に巡り会えたことに感謝して、この場を借りて作者にお礼申し上げたい。
(了)
*1:博士について詳しく知りたい人は夢野久作『ドグラ・マグラ』を読もう。
「あなた」と呼びかける文体はすべて「わたし」へと置き換えられる
アフィリエイトでもブログでも、コピーライティングでも良いのだけれど、読者に「あなた」と呼びかける技法が人気を集めている。読者の心を揺さぶりやすい、というのが主な理由だろうか。
たしかに、
- あなたはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思いませんか?
- あなたはWebライティングの単価のあまりもの低さに絶望してはいませんか?
- あなたは友達や恋人も作らず、孤独に過ごす毎日に満足していますか?
みたいな感じで、文の頭に「あなたは」をくっつけて呼びかけられると(お、おおぅ……もしかして俺のことを言っているのか)とめちゃくちゃ動揺してしまう。記事の下のほうに、なんか良い感じの情報商材のリンクが貼ってあったら、うっかりクリックしてしまうかもしれない。
このように、読者に対して「あなたは◯◯ではありませんか?」と疑問を投げかけて、あらかじめ用意された答えへと誘導するレトリックを設疑法(せつぎほう)という。コピーライティングの世界では基本的なテクニックで、意図して使っている人は多いと思う。
ただ正直に申し上げると、僕は「あなた」と読者に呼びかけるタイプの文体が大の不得意で、避けている。自分のブログではもちろん、Webライターとして仕事を受けるときでも、極力使わない。
というのは、このレトリック。効果が強すぎるのだ。相手の感情に、働きかけ過ぎる。街ナカでチェーンソーを振り回すようなもので、強すぎるレトリックは扱いが難しい。下手をすると自分が怪我をするし、相手を怪我させる場合もある。
僕はWebライターやアフィリエイターである以前に「小説書き」だ。小説文体に親しみがあるゆえに、文章中に二人称(あなた)を出すことにどうしても慣れない。だから設疑法を使う場面では、すべて「あなた」を「わたし」へと置き換えている。
じつはこれでも文章は成り立つし、場合によってはこちらの方が効果的なこともある。
「あなた」を「わたし」に置き換える具体例
冒頭に挙げた例文は次のように置き換えられる。
(Before)
あなたはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思いませんか?
ならば、あなたは従来の考えを改めて次のようなノウハウを実践しなくてはなりませんね!
(After)
わたしはアフィリエイトで不労所得をガポガポ稼ぎたいと思った。
だから今までの考えを改めて、次のようなノウハウを実践してみた。
文章の効果はさておき「あなたは~しなさい!」と言うよりも「わたしは~したんだ」と言った方が押し付けがましさや上から目線感がないし、なにより主語が一人称であった方が書きやすい。
あなたはスーパーでレタスを買うとき、まさか「重いものの方が新鮮だ」と思い込んで選んでいませんか? じつは逆なんです!
と書くのか、それとも
わたしはスーパーでレタスを買うとき「重いものの方が新鮮だ」と思い込んで選んでいた。まさか逆だったとは……。
と書くのか。
どちらが効果的とは言えないし、優劣もつけられない。
けれど、もし読者に「あなた」と呼びかけることに苦手意識があるのであれば、ぜひ後者の方法もあることを知っておいて欲しい。良し悪しではなくて、純粋に書き手の「向き不向き」の話。自分にあった方を選ぶと良いと思う。
(追記)
ただし両者では、読者にもたらす感情のベクトルが180度異なる。
例えば「あなたはまだ東京で消耗してるの?」と言われたらなんだかムッとしてしまうだろう。コピーライティングでは読者の「怒り」「怖れ」「不安」の感情をうまい具合にポジティブな方向へと誘導していく。(だからこそ設疑法は難易度が高い)
対して「わたしはまだ東京で消耗してるのか…」と書いたらどうだろう。こちらは読者の「共感」「同情」「感情移入」の気持ちを引き起こし、物語体験に没入させて引っ張っていく。(共感させるのに失敗すれば、読者にとっては《他人事》の話となってしまう。その意味では、同様に難易度が高い)
どちらが正しい!というわけではないから、自分の得意な書き方を見つけよう。もちろん、二刀流も可。
(なお、上記の例えはプロブロガー、イケダハヤト氏のサイト『まだ東京で消耗してるの?』を参考にしたもの。『まだ東京で消耗してるの?』は設疑法であり、見た者に強い印象を与えることに成功している。かなり戦略的に作られたであろうサイトタイトル。追記ここまで)
繰り返すけれども、読者に「あなた」と呼びかける文体はすべて「わたし」へと置き換えられる。ただ、これだけを伝えたかった。
レトリックを扱ううえで気をつけていたいこと
最近は文章術についていかがわしいノウハウ書籍が増えてきて、
- 人の心を操る文章術!
- コピーライティングで洗脳する方法!
- 読み手の心を動かす魔法の言葉!
といった感じの、思わず眉をしかめてしまうタイトルのものが出てきている。
もしも「言葉で人の心を意のままに操れる」と考えるならば、それは大変危うい思想で、文章術の闇に飲み込まれる恐れがある。そのような催眠技法が可能か不可能かと問われれば、可能ではある。やろうと思えば、相手の恋愛感情さえも操れる。
だが、危険なのだ。
いたずらに読者の心を動かすのは、本当に。
一歩間違えれば、自分が言葉の刃に絡め取られて、しっぺ返しを食らう。
レトリックを扱う者の基本姿勢として、決して忘れてはならないこと。
レトリックは、相手の思考や感情を都合良く操ったり、催眠をかけるためのものではない。
自分の伝えたいことを、読者により良く伝えるための技法なのだ。
これだけは、どうか――。忘れないで欲しい。
(終わり)
レトリックを身につけよう!(楽しいピクニック編)
レトリックが小手先のテクニックだと思われるのは、悲しい。レトリックは「書くこと」そのものである。レトリックを知れば、文章を書くのは楽しくなる。
はっきり言って、僕のような、ライターを本業としている者であっても、原稿を書くのは苦しい。とても苦しい。「あぁぁぁああ、うまく書けないよぉ!!」と頭を抱えてベッドの上をのたうち回るのは、日常茶飯事だ。
「俺って適性がないのかな……」と思い悩むことだってある。文章のセンス、切れ味、上を見れば果てしなく、自分のちっぽけさが惨めになってしまう。
それでも、僕は、良い文章が書けることを知っている。それは自分の文才を信じているからではなくて、偉大なる先人達が築き上げたレトリック(修辞技法)の素晴らしさを信じているからである。
自分の才能に自信が持てないのなら、レトリックの神を味方につけよう。きっと、僕たちの良き友となってくれるはずだ。
楽しいピクニック
今日は「ピクニック編」と題して、6つのレトリックをご紹介したい。どれも使いやすいものばかり。小説、ブログ、アフィリエイト(?)あらゆる場面で活用できるはず。
最初のうち、意図的にレトリックを使うのは、何だか気恥ずかしい感じがすると思う。その「恥ずかしさ」が大切。小説や文学といったものは僕に言わせれば「恥の昇華」に他ならない。恥ずかしくても大丈夫。黒歴史なポエムをいっぱい書いているうちに、文章はうまくなる。僕もがんばる。
(お題)レトリックを使って、上の文章をおもしろくしてみましょう。
「今日はいい天気なので、ピクニックに行きます。」まさに退屈しそうな文章の典型例だけれども、これをなんとか読ませるものに変身させたい。以下に回答例を示し、レトリックの紹介をしていこう。
1.情報待機――「謎」で読者を引っ張る技法
今日、私がどこに行ったのか。あなたがそれを知れば、驚きに腰を抜かすに違いありません。朝起きて、何気なく窓を開けて、空を見上げたんです。澄み切った青い空に、一片の雲が浮かんでいました。雲は私に語りかけます。「さあ、ピクニックに出かけよう!」と。
情報待機は、出すべき情報を先送りにして、読者の気を引く技法だ。例えばミステリー小説では「誰がどうやって相手を殺したのか」という肝心要の情報を隠しておいて、読者を「謎」で引っ張る。
「あなたが成功する方法を教えます!」みたいな自己啓発書だって、肝心のノウハウ開示を徹底的に引き延ばす。
(自己啓発書と情報待機の例)
- 冒頭――ああ、なんてこの本は素晴らしいのかしら。これを読んだら人生が変わるに違いないわ!(他者からのレコメンド文で期待を持たせる)
- 第一章――作者がどのようにドン底から大富豪へと成り上がったか。(筆者の成功体験談で期待を持たせる)
- 第二章――今までのやり方、一般に考えられている常識的な方法が、どれほど間違っているか。(不安を煽って、次の章への期待を持たせる)
- 第三章――作者のノウハウを実践することによって得られる素晴らしいメリットの数々。(未来を想像させ、やはり次の章への期待を持たせる)
- 第四章――ノウハウについて(ようやくここから本題が始まる)
- あとがき――肝心のことが知りたかったらセミナーに参加しましょう!(オチ)
このような構成を取る自己啓発書もあるが、えげつない。情報待機では読者の「知りたい」という欲望を逆手に取って、どこまでもどこまでも引っ張ってゆく。
縦にやたらと長いセールスレターも、長々とエピソードを読まさせる構造だ。肝心の商品とその値段については、最後の最後に書いてある。
「わざわざ貴重な時間をつかって広告文を読んだのだから、これは買う価値のある商品なんだ」と思い込んでしまう心理(認知的不協和)が働き、読者はついつい書き手の目論見に乗せられてしまう。
ピクニックに行く文章の場合は「どこへ行ったか」「誰と行ったか」などの情報を隠して引っ張れば、原稿用紙5枚分くらいは読者の気が引けるだろうか。(なかなか厳しい)
2.対照法――結びつけて「意味」をもたらす
晴れやかな青空の下、どんよりとした心をそのままに、僕はどこへ向かうべきかを決めかねていた。時間はいくらでもある、はずなのに。シロナガスクジラよりも大きな雲がゆっくりと空を泳ぎ、ちっぽけな人間の僕があくせくと走り回らなきゃいけない。
頭のなかで、二つの声が同時に響いた。
「ピクニックに行こうよ」「ハローワークに行かなきゃ」
対照法はその名の通り、物事を対照させながら話を展開していく手法。
ここでは
- 晴れやか/どんより
- 青空/心
- シロナガスクジラよりも大きな雲/ちっぽけな人間
- ゆっくり/あくせく
- ピクニック/ハローワーク
と、反対の概念を結びつけて、比較させながら描写する。
本来「いい天気なので、ピクニックに行きます」の前半部分、つまり「天気の話」は余計で、削ったほうが良いのかもしれない。
ピクニックに行くからには「いい天気」であることは明白だ。書かなくても、読者は予測できる。「生憎の曇天で~」とでも断り書きのない限りは、晴れているに決まっている。分かりきっていることは、書かない方が潔い。
だからこそ「天気」の話を出す以上は、それそのものに何らかの情報的価値が欲しい。例文の対照法は、風景描写と心理描写とを結びつけることで「どうでもいい天気の話」に意味を持たせようとしている。
3.語順操作――乱して「リズム」をつくる
走っていた。行かなければならない。今日こそは。絶対に。一天鏡の如く晴れ渡る、空の明かりが告げる。急げ。間に合わなくなるぞ。行くのだ、ピクニックへ。私は必ず今日中に、まだ太陽のあるうちに。
語順をめちゃくちゃにして、読者をびっくりさせてやろうってレトリック。小学校の国語で習う「倒置法」も語順操作の一種だといえる。
文法的には正しくなくても構わない。文体にリズムやメリハリをつけたり、異常な心境を表したいときに、語順操作は役に立つ。
4.皮肉法――褒めて貶し、笑って泣く
康夫が精算を済ませてラブホテルを出ると、外はバケツをひっくり返したような雨だった。愛人を駅まで見送って、その姿が見えなくなるのを確認する。康夫は雨傘に隠れて、ほっと口元を綻ばせた。
アレは、いい女だった。
「……あなた」
背後から誰かが呼ぶ。まさか、と思って振り返る。
目の前にいたのは、妻、信子であった。
「お、おまえ……ど、どうしてここに……」
「いいお天気だったので、ピクニックに行ってきましたのよ」
信子は雨に全身を濡らしたまま、抑揚のない声で答えた。
皮肉法、または反語法。
ちょっと例文が相応しい例かどうかは自信がない。皮肉法では「言っていること」と「思っていること」が正反対となる。読者は暗黙のうちに、言葉の真意を悟ることとなる。
皮肉法は侮れない。読者の感情を揺さぶる強力なレトリックでありながら、文体にはユーモアをもたらす。例えば、はてなのトップブロガーにも、皮肉法を巧みに操る文彩のエキスパートの方々がたくさんいる。
「美味しそうな料理だね」「あら、お上手ですわね」「ユニークで独創的なアイデアだ!」どのような褒め言葉も皮肉法を前にすれば、正反対の意味となってしまう。恐ろしい恐ろしい。
5.誇張法――オーバーリアクションによるユーモア
嗚呼、なんて素晴らしい天気なのだろう。肌を優しく包むように暖かい。陽の光を浴びるだけで、僕は今にも目が眩んで昇天してしまいそうだった。ガラス越しの光でこれほど気持ちいいのだ。嗚呼、外へ出たい。
二つの脚がムズムズと出発のときを待ちわびている。どこでも良いから、行くのだ。エベレストの頂上でも、ブダペストの王宮でも構わない。心が外へ飛び出たがっている。
「ピクニックだ!!!」
僕は絶叫して、病室のドアを蹴飛ばした。この閉塞したセカイをぶっ壊してしまえ。
誇張法はとにかく、大げさに、オーバーリアクションに表現することでユーモアを誘う文彩だ。
慣用句にも誇張法を用いたものが多い。「猫の額ほどの庭」「目に入れても痛くない可愛さ」「ラクダを針の穴に通すくらい難しい」「嘘ついたら針千本飲ます」など。
小説における誇張法の実例を示したい。
それは身長六尺を超えるかと思われる巨人であった。顔が馬のように長くて、皮膚の色は瀬戸物のように生白かった。薄く、長く引いた眉の下に、鯨のような眼が小さく並んで、その中にヨボヨボの老人か、又は瀕死の病人じみたような、青白い瞳が、力なくドンヨリと曇っていた。
(引用:夢野久作『ドグラ・マグラ』青空文庫)
さすが夢野久作……。上記の文章は、化物を描写しているのではない。異様ではあるけれど『人物』のようすを描いている。「巨人」「馬のように長い」「瀬戸物のように生白い」「クジラのような眼」すべて、誇張法となっている。
読めば分かるとおり、誇張法は明喩や暗喩を伴うものが多い。
ドグラ・マグラは青空文庫で無料で読めるので、ぜひ読もう!(めっちゃ面白い)
6.列挙法――執拗に並べ立てて描写する
ピクニックに行こう。透明な空、ゾウの形をした雲、そよ吹く風、アブラゼミの鳴き声、向日葵の香り、固く結ばれた靴の紐、凍ったペットボトル、あらゆる世界のすべてが私を肯定し、足は大地を蹴り、腕はぶんぶんと振られ、唇は陽気な歌を口ずさむ。
大自然に導かれ、誘われるままに、私はピクニックへと向かった。
列挙法では次から次へと言葉を並べ立て、圧倒する。必然的に描写はしつこくなるのだけれど、そこを武器とする。
そう、レトリックは僕たちにとって頼もしい武器であり、使いこなすと楽しい道具であり、ときとして他者を救う薬ともなれば、他者を苦しめる毒ともなる。繊細で、大胆で、我が儘で、優しくて、強固で、不安定で、扱いづらいことこの上ないけれど、その力に溺れてしまわずに、書くことを愛し続けるのであれば、これほどに良き友はいないのだから、僕たちはレトリックをもっと好きになったっていいのである。
……みたいな文章が、列挙法の例となる。じつは列挙の文彩だけでも10種類近くの分類があり、レトリック沼は深みにハマると抜け出せなくなる。
本格的にレトリックを学びたい人は
- 日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書) 瀬戸 賢一
- レトリックのすすめ(大修館書店) 野内 良三
- 日本語の文体・レトリック辞典(東京堂出版) 中村 明
- レトリック事典(大修館書店) 佐藤 信夫・佐々木 健一・松尾 大
がおすすめ。(入門→発展)の並び順。
(終わり)
黄金司を育てよう(サボテンかわいい!)
黄金司はマミラリア属のサボテンで、育てやすくて増やしやすい。100円均一のダイソーでも買える。気軽に栽培でき、コストもほとんどかからない。「ちょっとサボテン育ててみたいな」という人にぴったりな品種だ。
黄金司の魅力
黄金司の魅力は成長スピードが早くて変化に富むところ。僕も買った当初は(サボテンなんて姿変わらんし見ていて飽きるやろな……)と思っていたのだが、良い意味で予想を裏切られた。
黄金司は親株から子株がニョキニョキと生えてきて、群生のようになって育つ。ポケモンの「ディグダ」が「ダグトリオ」に進化するかのような面白みが味わえる。上の写真は買った当初のもの。半年もすると下の写真のように驚くべく成長を遂げる。
植木鉢を大きくしたので、今ひとつサボテンの成長が分かりづらいが背丈がかなり伸びている。サボテンの赤ちゃんがポコポコと根本から頭を出し、子株は親株を越すほどに成長している。
ここまで分かりやすく変化してくれると、サボテンもじつに育て甲斐があり、愛おしい。
1年育てた黄金司。なんかめっちゃ増えてる。※1枚目の写真と同一サボテンです。
かわいい!(確信
黄金司の育て方
サボテンはなんだかんだいって、栽培難易度が高いらしい。とくに水やりのさじ加減が難しい。サボテンを枯らす原因の筆頭が「水の与え過ぎ」にある。どの園芸書を読んでも「水のやりすぎ注意」といったことが書かれている。
一方で「サボテンは思っているより水を必要とする」なんて意見もあり、どうすれば良いのか頭を抱えてしまう。
我が家の場合は「夏、冬のあいだは月1回」「春、秋のあいだは月2回」の頻度で水やりをしている。結局は、土のようすを目で見て判断するしかない。竹串で土中まで刺してみて、土が完全に乾いていたら水のやりどき。
水を与えるときは出し惜しみせず、鉢から溢れ出るくらいの水をたっぷりとあげる。土全体に水を行き渡らせる感じで、一度にドーン!とあげてしまう。サボテンに限らず、多くの園芸植物において、これが水やりの基本。
土はサボテン専用土にお任せ
土や肥料は、調合するのが面倒くさい。ホームセンターに売っている肥料入りのサボテン専用土にお任せで良いと思う。僕の場合は、1年に1回植え替えをする程度で、とくに追肥はしていない。
植え替えは春か秋に。素手で触ると棘が痛いので、厚手の手袋を用意しておきたい。キッチンペーパーで包んでやっても大丈夫。
植え替えのときに、根を数センチ切った方が元気になるらしい。ただ、うちではやっていなかった。植え替えのあとはすぐに水をやらずに、1週間ほど直射日光の当たらない場所に置いておく。
そして1週間後に、たっぷりと水やりする。
とにかく「土が完全に乾くまで待って、たっぷり水やり」を心がけていれば、そうそう枯れない。100円で買った命とはいえ、もう大切な家族同然だ。長生きさせたい。
ポインセチア、シクラメン、コニファーにプリムラ・ポリアンサ……etc 小学生の頃からいろいろ育てるのが大好きだったけれども、枯らしたときは本当に悲しかった。
園芸植物はやっぱり名前をつけると、愛着が湧く。僕はかつて、ポインセチアに「ポチ」と名前をつけて、イヌのように可愛がっていた。(ポチは挿し木に成功して、1株から14株にまで増やした。いくつかは、遠い親戚の家々で今でも生き延びている)
黄金司につけた名前は、もちろんツカサ。毎日サボテンに話しかけて「聞いてアロエリーナ♪ ちょっと言いにくいんだけど♪」のCMのような感じで、楽しく一緒に過ごしている。
もし黄金司を育てる際は、他のサイトの「サボテン栽培法」や市販の書籍などもぜひ参照されたし。サボテン栽培だけで1冊の分厚い本が書けるほどに、サボテンの世界は奥深い。
Welcome to the SABOTEN world ! (みんなで行こう、サボテンの世界へ!)
(終わり)
ポケモンGOと孵化する格安スマホ
ポケモンGOには「卵を孵化させる」という機能がある。2km、5km、10kmと、歩いた距離に応じて生まれるポケモン(のレア度)も変わってくるらしい。僕もさっそくこの卵ちゃんを孵化させようと、ポケGOを起動させて六甲山を歩きまわる。
スマホをスリープすると、孵化に必要な移動距離がカウントされない。仕方なくスリープ機能をOFFにして、画面つけっぱで登山することにする。六甲山はウリムーとかがいっぱいいそうな雰囲気があるが、あれは新ポケだったか。山から下りてきたイノシシが、チューリップをよく食い荒らすのだ。
さておきそうして歩いていると、だんだんとスマートフォンが温かくなってくる。いや、温かいというレベルを通り越して、ホッカイロのようにホカホカしてくる。カバーを外して直に触れてみると「熱ッ!」と火傷してしまいそうなくらい。
僕はすっかり感心してしまって(なるほど……こういう原理で卵を温めて、孵化させるわけか……)と納得。最近のゲームは凝っている。音や振動でリアリティを与えるだけでなく、ARで現実と空想とを繋げてしまう。それだけでなく「温度」までもリアリティを追究するとは。
灼熱を帯びるスマホを片手に、僕は心配する。ポケモンが孵化するまえに、茹で卵になったらどうしよう。
六甲山の麓にある公園でひと休みする。汗を滝のように流し頭をクラクラとさせてくつろいでいると、僕の親友である江安恒一が「やあ」と呆れた笑みを浮かべて、隣のベンチに座った。彼はいつでも唐突にあらわれる。
「焼身自殺をはかる吸血鬼ごっこでないとすれば、キミはいったい何をしているんだい」
江安くんが皮肉口調なのはいつものこと。平常運転だ。大学時代からの付き合いで、彼がどんなに悪いジョークを言ったとしても僕は気を許している。
「なにって、ポケモンGOだよ。今、卵を孵化させているところなんだ」
スマートフォンは熱くなりすぎていて、持つのも辛いくらいだった。頑張る。こんなことなら軍手を用意しておけばよかった。ハリポタのハグリッドも、ドラゴンを孵化させるときに手袋的な何かを装着していた。あんな感じのでハフハフしたい。
「へぇ……。意外とミーハーなんだね。で、なんのポケモンが生まれるんだい?」
「何ってそりゃあ、生まれてみるまではわからないよ。たぶん、中に入っているのは炎タイプのヒトカゲかブーバーだと思う。こんなに熱いってことは」
生まれてみるまではわからない。
生まれてみるまでは、わからない。
我ながら良い言葉だと思った。小説原稿だって、生まれてみるまでは傑作なのか、駄作なのか、判断のしようがない。未完の原稿は、まだ生まれていない卵と同じなんだ。孵化させるのに熱が必要なのと同じように、原稿を完結させるのにも、熱がいる。
ツンツン、と江安くんが、スマホの画面をつつく。や、やめろ。卵が割れちゃうじゃないか。
彼はしかし首を横に振って、アイロニカルな表情を浮かべた。
「これは熱暴走だよ。やめた方がいい。多分、ポケモンが生まれるより先にスマホがぶっ壊れる」
「な、なんだって。スマートフォンが割れて中からポケモンが出てくるだって!?」
錯乱。僕は卵を孵化させるつもりが、誤ってスマホを孵化させていたようだ。
江安くんは僕の手から無理やりスマホを取り上げる。液晶に指を走らせて、何やら調べている。
「なるほど。エイサーのLiquid Z530か。格安スマホのひとつだね。ジャイロセンサーが搭載されていないから、アプリのバッテリーセーバーモードが効かないんだ。にしても、ここまで熱くなるのは危ない」
そう言ってスマホの電源を切ってしまった。僕の手に返してくれる。
電源を切っても、スマホはしばらくの間ホカホカ石焼き芋状態だった。ポケGOアプリに問題があるのか、格安スマホに問題があるのか、両方なのかもしれないけれど。問題といえば今年の夏の暑さこそ問題であった。
「なんてことだ。僕の格安スマホでは、卵の孵化に耐えられないのか……。こうなったらiPhone8を買うしかないのか……そう、iPhoneなら!!」
「いや、おとなしく秋まで待つといいよ。少なくとも真夏はポケモンの産卵シーズンじゃない」
「そうか、秋まで、か……」
その頃までに、僕の心のなかの「熱」が残っていればいいけど。あと某所に連載している未完の小説を完結させなきゃなぁ……。
――――――――
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――――
夜。クーラーのよく効いた部屋でポケモンGOを起動させると、ズバットが次から次へと湧いてきて「わあい」と思った。モンスターボールがなかなか当たらず、運動会の玉入れを思い出す。あるいはズバットは、ドッジボールで避けるのだけがうまかった当時の僕によく似ている。
ズバットをゲットしてポケモン図鑑に登録する頃には、手持ちのモンスターボールをほとんど使い切ってしまった。
遠くから猫が「ニャオ」「ニャオ」と鳴く声が聞こえる。
ポケモンマスターへの道は遠いな……。かつてゲームボーイカラーで、ポケモンを遊んだ日々。あの頃に戻りたい。僕はその温かさを確かめるように、自分の左胸にそっと拳をあてた。
(終わり)
日記を300万文字書いたけれども人生は変わらなかった話
2004年1月1日『第一章――初まり――カウントダウンがはじまった。3…2…1、お寺の鐘がなり僕は、窓を開けた。さっきまで曇ってたのに月が顔を出した。僕はこの日初めて、天体望遠鏡で月を見た。初めてこんなに美しいものをみた。』
僕が小学6年生(12歳)のときに書き始めた日記の序文であり、それから12年間、ずっと日記を書き続けている。執筆文字数は、電子化をした2010年以降の分だけでも245万文字に達する。アナログで書いていた分も合わせると、日記の総執筆文字数は300万文字を優に超える。
「日記をつけると人生が変わります!」と主張する自己啓発書を読んだ。子供の頃から歯磨きの習慣のように書き続けてきた身としては、まったく実感がない。日記のおかげで救われたとか、生き方が好転したとか、そのような効果は僕にはなかった。
むしろ「あのときの僕はなんて馬鹿だったんだ!!!」みたいな後悔の念を呼び起こす作用の方が、日記には多い。
だけど、日記は楽しい。
読み返すのが楽しい。
そこら辺のエンターテインメント小説よりも、自分の日記のほうが遥かに面白いと思うのは当然のことで、なぜならそれは僕の物語であり、僕自身のことが書かれているのだから、面白くないはずがないのだ。自分が主人公なんだから!
日記は人生を変えない。けれど、良い娯楽にはなる。
「人生をもっと良くしなきゃ!」なんてハードルの高い目標を立てなければ、日記ほど長続きして楽しい趣味はない。というわけで、日記のススメ。
日記はパソコンのメモ帳でOK「検索」できた方が面白い
読み返すときの利便性を考えると、日記はパソコンの「メモ帳」に書いていくのが最強である。テキストデータだと、日付けや文字列での検索がすぐにできる。
ある日セブンイレブンに立ち寄ったとき、レジでnanacoカード出した。ナナコ(キリン)の、のほほんとした顔を見て「そういえば最近、リアルでキリン見てねぇな……。最後に僕がキリンを見たのは、いつの日だったか……」と疑問を抱く。
そんなときこそ、日記の出番だ。
僕はスマートフォンをポケットから取り出して、Kindleアプリを立ち上げる。Kindleのパーソナルドキュメントに「日記.txt」が保存されているので、ファイルを開けて『キリン』で検索をかける。
2013年04月08日(月)晴れ
『就職活動。◯◯社のグループディスカッションに参加する。議題は「動物園の動物は幸せか否か」だった。僕は《動物園》が《企業》のメタファーであると考え、動物園の動物は幸せであるという方向に話を持って行こうとする。ところが《不幸派》の意見が強く、ひとりが「管理されるのは可哀想だ」と言い出したあたりから場には不穏な空気が立ち込めていた。僕は混乱して、動物園に行ったらキリンもゾウも笑った顔をしていた、と意味不明なことを口走ってしまったが……(中略)……作戦は失敗だった。こんなことなら進行役に立候補しておくべきだった。』
あ、これではないや……。今度こそ……。
2012年10月05日(金)晴れ
『フォトコンテストの写真を撮るため、天王寺動物園へ。キリンやカバなどを撮る。笑ったワニが可愛い。ワニがこれほどまでに可愛い生き物だとは知らなかった。帰りに、カップルの男女二人に写真撮影を頼まれる。僕はカメラを引き受けて、ワニのように笑った。』
そうかー、最後に動物園に行ってキリンを見たのは、もう4年も前のことなのかー。と感慨に耽る。
ネットサーフィンのごとく「日記サーフィン」をしていると、ついつい読み耽ってしまい、時間が過ぎていく。そういう時間が好きだ。
アナログももちろん良いものだ……。
デジタルのテキストデータで日記を保存すると、バックアップが取り放題だ。txtファイルを放り込めば、Kindleやスマホでも読める。検索機能だって、デジタル日記に敵うものはない。(なにせ、2010年から2016年までのすべてのデータがひとつのファイルに入っているのである。年を跨いでの検索なんてお手の物)
ファイルサイズがメガバイトを超えると、デフォルトの「メモ帳」だと心許ない。僕はテキスト編集は「サクラエディタ」を愛用している。
しかし、紙とペンで記録するアナログの日記も、なかなか捨てがたい。
僕は2004年から2009年までは紙と鉛筆で日記をつけていて、日記にはイラストもよく描いていた。新聞の切り抜きを貼ったり、テレビ欄を貼り付けたり、時間割表を貼ったり、右下にパラパラ漫画を描いたりと、アナログ日記ならではの楽しみ方をしていた。
ふとページを開けたら、何処ぞで拾ったカラスの羽がセロハンテープで貼り付けてあって、ぎょっとした。さすがにデジタルでは真似できまい。
今となっては便利なデジタルからアナログに戻すつもりはないけれども、手書き時代の日記も良かったなぁ……と、今読み返してしみじみと思う。朝顔の観察絵日記なんかも見つかって、本当に懐かしい。
一方でデジタルは「追記」を自由に挿し込めるメリットが大きい。たまに僕は『未来の自分へ』という手紙を日記中に仕込んでいる。そして何年か経ったのち、返答を(2016/07/09:追記)といった感じで書き入れる。
さらにその追記が「過去のもの」となった時点で改めて読み返すと、複数の時系列の《自分》を俯瞰できて、大層面白い。まるでタイムトラベラーになったような気持ちになれる。
夢日記が見せる明晰夢
高校3年生から大学2年生くらいにかけては、現実の日記と合わせて「夢日記」をつけていた。夢日記をつけると、夢が日に日に鮮明になってゆく。夢を自在にコントロールできる「明晰夢」や、現実世界のような空間を遊び回れる「体外離脱」ができるようになる。
明晰夢も体外離脱も、どちらも夢の一種に過ぎないのだけれど、そのオカルト的な神秘体験は凄まじいショックと中毒性を持ち、僕も一時期は現実を疎かにして夢の世界に溺れ浸っていた。
さきほどの《キリン》で検索をかけると、夢日記のほうもヒットする。
2013年06月29日(土)晴れ【夢日記】
※ホラー注意
『動物園のなか。ライオンの子供があくびをしている。ワニたちが大喧嘩をしている。失恋したキリンが神獣となって檻を抜けだして、人々をパニックにさせる。雷鳴。
僕は、動物園内の皮製品のショップを見ている。(死んだ動物の皮が剥がれて売られている)こんなことをするからキリンが怒るのだと僕は必死になって訴える。
刃物を研ぐ職人さんが、笑って昆虫標本を見せる。蝶が串刺しにされている。
バス停にいると、眼鏡をかけた男の人から声をかけられる。最寄りの駅への行き方を訪ねられたが、僕にもわからなかった。
一緒に歩いていると、男性が「もしかしてTwitterされてます?」と聞いた。私は、笑みを浮かべながら「えっ、誰のことですかねぇ。◯◯さん」と返す。※仲の良いフォロワーさんの名前』
……というふうに、フロイトやユングに見せたら何か分かるかもしれないが、僕には意味不明だ。ここまで支離滅裂だと小説のネタとするのも難しく、シュルレアリスム文学の可能性はあるが……あまり生産的とも思えぬので夢日記は今ではやめてしまった。
夢日記をつけていた頃は、けっこう精神不安定な時期で(それが夢日記の弊害とは限らぬが)とにかく夢日記は精神をそれなりに消耗する。
なので手放しには、夢日記はお勧めできない。
短歌を書こう!
日記を読み返していると、短歌やポエムもたくさん見つかる。そのほとんどが黒歴史だが、後で読み返すとクスッとなるものも多い。
『泣く君の笑う姿が見たいから 僕は恋路の橋渡し役』(2012年10月20日)
『明日でも変わらず僕は生きている 夢と希望は自己愛と共に』(2012年10月21日)
『価値観を作って壊して貼りあわせ破って繋げて明日も生きる』(2012年10月23日)
『闇惑い因果で巡り逢う君と 中二病でも恋がしたいと』(2012年10月30日)
ってクスッとじゃなかった……な、なんたる黒歴史……!!!
日記は役に立たないけれど、面白い
ここまで読まれた方は「ああ、たしかに日記ってあんまり人生には役立ちそうではないな」という感じを掴みとってくれたかもしれない。少なくとも僕が12年間で300万文字を書いた実感で言うと、日記は人生に役立つものではない。
たぶん、日記を書く時間を試験勉強にでもあてた方が、人生を変える力は大きい。
それでも、日記を書くのは楽しいし。日記を読み返すのは面白い。
それで良いんじゃないかと思う。
見返りはいらない。
自分専用の娯楽小説を書こう。自分のためだけに。
読者は自分ひとり。僕が太宰治のような文豪にならない限りは、世に公開されることはないだろう。
そういう物語がひとつやふたつあっても、良い。
(了)