耳鳴りを治すために整骨院に通った話
失ってはじめて、幸福の存在を知る。
「静寂」がこれほどまでにかけがえのない財産であったとは、止まらない耳鳴りに侵されるまでボクは知る由もなかった。
眠るときに静かであり、起きたときに静かであった日常が、今となってはとても幸せだったことに気がつく。
きっと、自分が死を迎えるその日まで、静寂な時間は戻ってこないだろう諦めがある。不謹慎を承知で言えば、死ぬのが少し楽しみだ。そこが天国でなくたって、壊れた目覚まし時計が永遠に鳴り続ける世界よりは、ずっと――。
前回の記事「止まらない耳鳴りが精神に与える影響を甘く考えていた」の記事で書いたとおり、耳鳴りの症状は精神を蝕む。これがつらい。
さておき、原因不明の耳鳴り治療において耳鼻科で出される薬というのは相場が決まっており、
- アデホスコーワ
- メコバラミン
- ストミン
といったところか。
ボクの場合は上記三種に加えて「ツムラ牛車腎気丸エキス顆粒」という漢方薬を処方されている。
耳鳴りに効くほぼ唯一の処方薬とされるのが「ストミンA配合錠」で一縷の望みだったものの、服用一ヶ月以上経つも改善は認められなかった。副作用のせいか眠くなるので、不眠症には役立っている。
耳鳴りで整骨院に行った理由
世の中に怪しい代替医療や民間療法が蔓延るのは、病院に行ってもどうにもならない病気がたくさんあるからだ。
「耳鳴り」なんてのはアフィリエイター垂涎の儲かる検索キーワードで、以前はサプリメントのアフィリエイトサイトが検索結果を汚染していた。(今でも耳鳴り治療を謳う怪しい代替医療のサイトは多数ヒットする)
とはいえ、藁にもすがる思いで今回通うことに決めたのが、整骨院だった。もともとボクはひどい猫背かつストレートネックで、慢性的な肩こり首こりには悩まされてきた。
確実に原因(姿勢の悪さ)が分かっている症状(肩こり・首こり)をまずは治していって、あわよくば耳鳴りも改善されたらいいなみたいな気持ちである。
整骨院でおこなわれるサービスは大別すると
- カウンセリング
- マッサージ(身体の奥の筋肉をほぐすらしい。結構痛い)
- 背骨と首の骨の矯正(痛くはないがめっちゃボキボキ鳴る)
の3つ。
病院では症状もろくに聞いてもらえず即聴力検査に回されて薬を処方されるだけだったが、整骨院では柔道整復師さんが親身になってヒアリングしてくれる。
無論それで治るわけではないものの、整骨院・整体院・鍼灸院といった代替医療機関は「カウンセリング」が施術の重要な部分を担っているのだなと強く実感した。
整骨院へは週2回の頻度で1ヶ月ほど通った。費用としては1ヶ月(8回通院)で1万4千円で、相場としてはかなり安いところだと思う。
整骨院の闇としては、
- 耳鳴りや肩こりでの整体治療は健康保険が適用されないはずなのに、保険診療を勧められる(口裏合わせをするということ)
- 高額な枕・骨盤ベルト・サプリメントを勧められる(押し売りはされていない)
- 景品をエサに口コミサイトで星5レビューをつけるよう依頼される
といった「これをやったらアウトだろ!!」と思うようなことをやっている整骨院だった。
この記事は告発を目的とせず、またボクの居住地がバレてしまうため具体的な店舗を明かせない。ただ、グレーゾーンな商売をしている整骨院はわりと多いのかもしれない。
結論を述べると、整骨院に1ヶ月間通っても耳鳴りが改善することはなかった。
しかし、柔道整復師さんに症状を聞いてもらえたことで心はたしかに軽くなったし、施術を受けたことで体も軽くなった。
残念ながら猫背とストレートネックはあまり良くなっていないが、首こりや肩こりはたしかに改善されたように思う。
耳鳴りがなければ整骨院にいって、背骨や首をボキッとされる施術は体験できなかっただろうし、コインの表と裏のように、多くの物事には良い側面と悪い側面がある。(柔道整復師さんの腕が良かった一方で、整骨院の経営サイドがあこぎな商売に手を染めているように)
良くも悪くも、体験してみなければ分からないことがこの世界には多すぎる。
(了)
※重要な追記
かれこれ3ヶ月ほど整骨院に通っていたが、やめようと思う。
整骨院で受けていた、首を旋回させてボキボキッと鳴らす施術は『頚椎スラスト術』と呼ばれ、調べたところによると頚椎を損傷するリスクのある危険な手技らしい。
頚椎に対して行うスラスト法について、厚生労働省は禁止通達を出している。
整骨院での施術によって健康被害を受け訴訟にまで発展している事例もいくつかあるようで、怖くなってしまった。
代替医療業界は闇が深いなと、悪い意味で痛感してしまった。
【体験談】プラカード持ちはぼっちに最適のバイトなのか
前々から気になっていた「プラカード持ち」のアルバイトを体験した。求人では《短期バイト》として募集をかけていたものの、ボクのところは雇用ではなく業務委託でのお仕事だった。
プラカード持ちのバイトとは、よくあるのが住宅展示場への道案内の看板を掲げるもので「公道上に勝手に看板を置くのはいけないから、それなら人を雇って持たせておけばいいよね!」という謎理論のやつである。
学級会における「木の役」ではないけれど、プラカード持ちの業務を行う際にはひたすら「看板」になりきらなくてはいけない。
業務中、看板を持つ以外の行為は一切禁じられている。スマートフォンをいじったり、読書をしたりは一切できない。端的にいうならば何もしないのが仕事である。
実際にプラカード持ちを体験してみて、本業務は《身体的負担》と《精神的負担》の2つに分けて論じる必要があると感じた。
プラカード持ちの身体的負担
プラカード持ちなんて座ってただ看板を持っているだけでいいんだから、他の肉体労働と比べると楽なんでしょ? と思われるかもしれない。
たしかに引越し作業などと比べるとはるかに楽だとは思うものの、じつはこの記事を書いている時点で筆者は腕が筋肉痛になっている。
というのも、
プラカードが重い!!
のだ。
これは意外だった。
住宅展示場道案内のプラカードは全体が金属(鉄?)で出来ており、重量がある。多分10kgくらいあり、持ち運びに苦労する。
もちろん、座って支えている分には重くはないのだが、そこが風通しの良い場所だと看板がめちゃくちゃ風の抵抗を受ける。金属の塊が飛ばされでもしたら凶器そのものだ。しっかりと両手で支えておかなくてはいけない。
勤務した日は真冬で、外気温は3℃前後。運悪くボクの持ち場は日陰だった。おまけに北風(ビル風?)が吹き付けてくる。雨だかみぞれだか分からんものも飛んでくる。
めちゃ寒い!!!
一応防寒着としてコート・ニット帽・マフラー・マスク・手袋の着用やカイロの使用が認められているものの、これらをフル装備したとしても真冬の日陰、それも風の強い日に6時間半も動けず座りっぱなしなのはキツイ。
ユニクロのヒートテックを着込んできたものの、甘かった。登山用のインナーであるモンベル《ジオライン》クラスの装備が必要だったかもしれない。
手袋をしていても、プラカード自体が金属製でキンキンに冷えており、手に冷たさが伝わってくる。
真冬のプラカード持ちは寒さとの勝負であり、逆に真夏は暑さとの勝負となる。(熱中症で倒れるリスクを考えると夏のほうがきっと過酷だろう)加えて、雨や風との戦いとなる。
ボクは6時間半ガタガタ震えながらプラカードを持っていたけれども、結局のところプラカード持ちの身体的負担は「季節」と「天候」に大きく左右されると言わざるを得ない。
報酬額が変わらないのであれば、真冬・真夏・悪天候下のプラカード持ちは割に合わないと感じる。あと車道沿いで排ガスをもろに吸い込むため、マスクは用意しておきたい。
プラカード持ちの精神的負担
プラカード持ちは、コミュニケーションコストがほぼ発生せず、勤務中はずっとひとりで看板を持つことになる。
したがって「何もしないで長時間を過ごすこと」が得意な人であれば、精神的負担はほとんどない、すごく楽な仕事となる。
6時間も何もしないでどうやって暇をつぶすの? という問いには、次のような提案ができる。
- エア友だち(人工精霊タルパ)と会話する
- 瞑想する
- 般若心経など、暗唱済みのお経や詩を何遍も唱える
- 脳内で音楽を再生する(イヤホン着用は禁じられている)
- 脳内忍術バトル
- 台詞暗記済みの「ご注文はうさぎですか?」第一話を脳内リピート再生する
- 頭のなかで棋譜並べをする(囲碁なら一局の脳内棋譜並べで一時間は軽く時間を潰せる)
- 視界に入った車のプレートナンバーの数字を加算・減算・乗算・除算して遊ぶ
- 素数をかぞえる
- 人間観察をする
- 小説のネタ出し、プロット作成
- 今後の人生について考える
などなど、ぼっち上級者であれば上記のような「何もしないで長時間を過ごす」スキルには長けているはずで、暇つぶしに苦労することはないと思う。
ボクも久々にエア友だちと長話できて楽しかった。
「般若心経」はゆっくりと心のなかで20遍も唱えればちょうど1時間くらい経過するし、心も安らぐしでおすすめできる。
通行人はまさかプラカード持ちのバイトが心のなかで般若心経を唱えているとは思うまい。
プラカード持ちは割に合うバイトなのか?
業務委託のため交通費が支給されない。交通費を差し引いて実拘束時間を考慮すると、時給換算で600円~700円程度となってしまうケースもあり、あまり割に合うバイトとは思えない。
季節・天候の良いときならまだしも、真冬や真夏は死にそう。(冬は防寒対策次第か……)
看板は意外と重く、風が直撃する場所だと支えるだけで腕が筋肉痛になる。
等を考えると、一見して楽そうには見えるプラカード持ちのアルバイトは、そんなに楽でもないし美味しい仕事ではなかった。
しかしながら、何もしないのが仕事な6時間半の勤務中に、小説のプロットを考えたり哲学したり瞑想したり悟りを開こうとしたりと、生産的な活動をすることはできる。
《何もしない6時間半》を自分にとってプラスな体験に変えられる人であれば、プラカード持ちは案外良いバイトなんじゃないかと思う。
ちなみにプラカード持ちのアルバイトは「ショットワークス」という短期バイト特化型の求人サイトでよく募集されている。ボクもショットワークス経由で応募した。
以上、プラカード持ちの体験談でした。あと最後に、腕時計はあった方が良いです。
(了)
止まらない耳鳴りが精神に与える影響を甘く考えていた
耳鳴りに起因する自殺や殺人は、事例がいくつもある。命にかかわらないはずの症状はしかし、たしかに人の命を奪っている。
私は正直、「止まらない耳鳴り」が精神に与える影響を甘く考えていた。あらゆる病気に言えることだ。やはり自分で体験してみないと、その本質的な恐ろしさはなかなか理解できない。
耳鳴りを発症した日は今でも覚えていて、なんだかいつもの耳鳴りとは明らかに《質》が異なる気はしたのだが「まあ耳鳴りだし寝たら治ってるか」と考えて眠りについた。
しかしその日以降、耳鳴りは24時間常に一定の音量で鳴り続け、寝ることさえままならない日々が続く。眠ろうとすると左右の耳鳴りがハウリング現象を起こして負の増幅ループが発生し、耐えられなくなって飛び起きてしまうのだ。
囚人にヘッドホンを装着して延々と音楽を聴かせる《音責め》と呼ばれる精神的拷問がある。まさにそれ、といった感じだ。
拷問と同じで、逃れる術がない。テレビを見ていようが賑やかな商店街を歩いていようが、耳鳴りは絶えずつきまとってくる。
発症してから5日目にはもう、安楽死する方法をインターネットで調べ始めていた。正気に戻ったときに冷や汗がどっと出た。まさか耳鳴りに、これほど強い希死念慮を誘発する作用があるものとは想像もできなかった。
弊著『妹の左目は、冷凍イカの瞳。』において、人類に自殺衝動を沸き起こすウイルスを題材に私はパンデミックホラーSF小説を書いた。
当時、やはりウイルスのくだりにリアリティを出すのが難しいなと感じたものだが、なるほど、今なら圧倒的リアリティを持った最凶のホラーが書けるだろう。
自分の精神力が、そのときまで残っていればの話だが――。
耳鳴りの問題は生活の質(QOL)を下げることだ、といった話がネットの解説文には書かれている。実際はそんな生易しい問題ではない。仕事はもちろんながら、日常生活に大きな支障をきたす。
私にも物書きとしての矜持があるから、決してこんなところで屈したくはない。しかし得るべき教訓があったとするならば、人生は何があるかわからない。
それゆえに、自分の書きたいものは書けるうちに書く。書けるときに書けるものを書く。後悔を残したくない。できることをできるうちに精一杯やっておきたい。
なんにせよ思った以上に精神的消耗が激しい。3年前に神経性胃炎に散々悩まされたときのことが可愛く思える。
もちろん今は病院にかかっており、まずは治療に専念したい。
(了)
脱社畜サロンに入ってプロブロガーを目指す前に試したい「バーベル戦略」について
イケダハヤト氏の企画する、3日間で参加費30万円の「脱社畜サロン合宿」なるものが耳目を集めている。
30万円という決して安くはない費用を取ることからして、ターゲット層は安定した給与を得ているサラリーマンになるのだろう。
僕自身、正社員になったことがないからまったく他人のことは言えないのだけれども「会社を辞めてプロブロガーになろう!」「Youtuberになろう!」とするのは大変リスクが高く、かつ期待収益率の低い危険な賭けに思う。
例えるならば「定期預金を解約して仮想通貨に全力投資するぜ!」に似たような行いである。
とはいえ、ブロガーにせよ小説家にせよ文筆業で食っていくのは僕にとっても憧れであるし、Youtuberだってエンターテイナーとして素晴らしい職業だ。夢を追うことは悪くない。
リスクを限定して、すなわち失敗しても死なないようにして、かつハイリスク・ハイリターンな夢を追うためにはどうしたら良いだろうか。
統計学者であり金融トレーダーであったナシム・ニコラス・タレブ氏は、著書『ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質』において《バーベル戦略》と呼ばれる考え方を提唱する。(※リンク先はAmazon)
バーベル戦略とは一般的には両極端な性質を持った金融商品を組み合わせてポートフォリオを構築する戦略で、バリュー株とグロース株だとか債券とレバレッジをかけた株式ETFだとか、さまざまな組み合わせ方がある。
タレブ氏はとくに「運用資金の85~90%をローリスク・ローリターンな安全資産に投資し、残りの10~15%でハイリスク・ハイリターンな賭けに投じる」やり方をバーベル戦略として紹介している。
2017年のビットコインバブルの際は「銀行にお金を預けていてもどんどん価値が減価してゆくから、今のうちに法定通貨を仮想通貨に変えておかないと相対的に大損する!!」みたいな怪説が叫ばれた。
しかしそれこそ、タレブ氏が賭けたリーマンショック以上に起こり得ない異常事態(ブラック・スワン)である。
仮に、法定通貨の価値が大幅に毀損されて、仮想通貨が覇権を取る時代がやってくると想定したとしよう。その《ブラック・スワン》のために投じられる資金としては、やはり投資資金の10%くらいが限度だと思う。
さておき、バーベル戦略は「プロブロガーやYoutuber、小説家や漫画家」を目指す際にも適用し得る考え方である。
ブロガーやクリエイターとして食っていくのは非常に狭き門であり、そのくせ参入者はやたらめったら多い。3年以内にリーマンショック級の金融危機が起こる確率と、僕が小説新人賞デビューして人気作家になる確率とを比較すれば、おそらく悲しいことに後者の方が低いだろう。
なので、リソースの90%は安定した本業に注ぎ込んで、残りの10%で大きな夢を叶えるためのクリエイティブ活動に励む。90%はプログラミングや英語など仕事に直結する資格の勉強に費やして、残りの10%は脚本理論など趣味的な学習に費やす。
90%と10%の比率にこだわる必要はないけれども、なんにせよ優先順位を考えれば、本業第一と言わざるを得ない。
「脱社畜サロン」の危うさは、90%の安全資産を捨てさせハイリスクな賭けに向かわせようとする点にある。
とはいえ、ブラック企業や低賃金労働の闇が広がる現代においては、心身を壊さず十分な賃金が得られる安定職を得ることも大変難しい話で、とかく世渡りが難しい。世知辛い。
最後に、プロブロガーを目指す人のために、僕個人のデーターを開示したい。
僕は2008年から11年間にわたってさまざまなブログ・サイトを運営してきたけれども、2019年1月現在、運営中のすべてのサイトを合算したアクセス数は8万PV/月だ。
11年間ブログを続けても、月10万PVに満たない。
もちろんこれは本業の10%のリソースしかブログ運営に割けなかったためであるものの、しかし逆説的に考えれば10%だけだったから11年間もブログを継続することができた、とも言い換えられる。
ともかく、プロになるならないは別として《書きたい》というおのれの衝動に従って自由に書くことのできるブログは素晴らしいものだと思う。
(了)
約束
中学校の休み時間。将来の自分がどのようになっているかについて、旧友とはよく話したものだった。
「俺たちは夢を持っているけどさ、それを叶えられるのはごく一部で、きっと俺らも将来はふつうのサラリーマンになっているんだろうな」
「きっとそうだな」
と笑い合ったが、ボクたちが勘違いしていたのは《ふつうのサラリーマン》とやらになるのは、そんなにたやすくはないことだった。
あれから十数年の歳月が経ち、旧友のひとりは職が決まらずアルバイトを転々とし、もうひとりは正社員にはなれたものの「ブラック企業で今すぐにでも辞めたい。でも親や親戚が絶対に許してはくれない」と悩みを吐露する。
ボクにしてもフリーランスとしては失敗しており、業務委託の仕事を続けつつも、掛け持ちできるパート求人を年末に探すような状況だ。
ふつうのサラリーマンだとかふつうの社会人だとか、そういった子供心に抱いた大人像が幻想であった事実に、随分後になって気付かされてしまった。
今年最大の寒波が襲い来るなか、未来が視えなくなっていた。中学時代から習慣的に続いている年賀状は「今年もよろしく!」くらいしか書く内容がなく、その筆跡から精神的なゆとりのなさを窺い知れる。
それでもボクたちの関係を繋ぎ止めるのは、中学の卒業式で誓い合った《共通の夢》だった。
ボクたちは互いにライバルで、真っ先にその夢を実現するのは他ならぬ自分であると、そう意気込んでいた。
とはいえ月日は流れ、受験勉強や就職活動に忙殺されるうちに、ボクはいつしか夢に見切りをつけ、忘れようとした。とりあえずは目先の金を稼ぐことのほうがずっと重要だったからだ。
そんな折、旧友から連絡が入った。
「お前はまだ書いているのか? 俺は最終選考に残ったぞ」と。
驚いたことに、旧友は今でも小説新人賞に投稿し続けていた。そしてようやく、最終選考に勝ち進んだそうだ。十数年間、彼は他者から何と言われようとも、書き続けたのだ。何度落選しても、挑み続けた。
ボクたちのなかで誰かの夢が叶うのであれば、きっと彼が最初でなければいけない。連絡を受けた時、もちろん心の底から喜んだ。だが同時に、焦燥感や自己嫌悪も大きかった。
去年といえば、ボクが「よっしゃ仮想通貨でワンチャン当ててやるぜ!!」とビットコインFXにのめり込み、まんまと嵌め込まれてひと泡吹いていた時期だ。そんな間にも友人はひとりで頑張り続けていたのだ。
自分は本当に、今まで何をやってきたのだろうか。
「あのときの約束、まだ忘れてないよな?」
友人は言った。
「約束……? いや……」
そんなんあったとしても時効やろ、と言いかけ、口をつぐむ。
少しの間を置いて
「いや……、もちろん。忘れるわけないやろ」
と返答すると、彼はそりゃそうだよな、と笑った。
たぶんそれはきっと、決して忘れてはいけないものだったのだ。
(了)
好きになったキャラが幸せになれない問題
卵が先か、鶏が先かの問題になってしまうのだけれど、ボクの好きになったキャラクターに限って幸せになれない。推しキャラが悲劇的な顛末を迎える物語にこれまで多々出くわし、つらい。
失恋する。闇堕ちする。夢を叶えぬままに死んでゆく。切ない笑顔を最期に見せて、この世を去ってしまう。
そういった《報われない系》のキャラクターばかりに感情移入してしまって、とてもつらい。アニメを観たり漫画を読んだりするたびに喪失感を味わっている気がする。
某魔法少女アニメではボクが好きになった順番にヒロインが死んでいって「おいふざけんなよ!!」と思った。
よく少女漫画のヒロインが「わたしが好きになった人はみんないなくなってしまうの。だからもう誰も好きにならないし、誰も愛さない」みたいな台詞を口にする。まさにそんな気持ちだ。
あるいは「こんなつらい気持ちになるならば、はじめから恋なんてしなければ良かった」のように、(くっ……あのとき3話で切っておけば良かった……)と悔やむ。
無論、それほどに感情移入をさせる優れた作品であることの裏返し表現と受け取って欲しい。出来の悪い悲劇からは、悲しみも後悔も生まれないのだから。
たとえ虚構であったとしても、そこから得た感情はまぎれもなく、本物だ。
創作は、感情の錬金術である。
さておき、今期アニメで最も安心して楽しめたのが『ゾンビランドサガ』だった。最初は佐賀県のPRアニメかー、とさして気にも留めていなかったが、これがとんでもないダークホースで、今期の覇権にふさわしい素晴らしさであった。
アイドルモノだがヒロインは全員死んでおり、ゾンビになっている。夢半ばで壮絶な死を遂げた悲劇的なヒロインたちが集まるものの、コメディをベースに観客を笑わせ、しかし肝心なところではきっちり泣かせる、絶妙なさじ加減でギャグとシリアスを使い分ける傑作だった。
ゾンビランドサガは見方によっては《悲劇を越えた先にあるもの》を描いた作品だった。
夢を叶えられず生を終えたヒロインがゾンビとして蘇る。それは悲劇からの救済であり、運命に対する逆襲である。
ゾンビランドサガのオープニングでは、つぎの前口上が語られる。
死んでも夢を叶えたい! いいえ、死んでも夢は叶えられる!
それは絶望?それとも希望?
過酷な運命乗り越えて、脈がなくても突き進む!
それが私たちのサガだから!
ゾンビランドサガは、悲劇系ヒロインばかり好きになってしまい打ちひしがれていたボクに、ひとつの希望をもたらしてくれたように思う。
命を散らしていった推しキャラがいつの日かゾンビとして復活し、生前の夢を叶える未来を切に願いたい。
(了)
SSSS.GRIDMANの最終話がボクに突きつけてきた残酷なメッセージについて
もちろんこの記事にはSSSS.GRIDMANの最終話ネタバレが含まれるため未視聴の人は回避してほしい。
と警告しておきながらさっそく本題に入るけれども、結局のところあれは『自身の創作物によって自己を救うことはできるか』『創作による自己救済は可能なのか』という問いかけを秘めた物語で、言うまでもなく新条アカネはこちら側の人間である。
こちら側、つまり新条アカネは物語の演者である以前に、虚構世界を創作する側の人間であった。
ボクは就活に失敗してメンタルが死にかけていた頃に、小説をひたすら書きまくった。誰に読ませるためでも誰に評価されるためでもない、自己救済のための小説だ。合計すると10作くらい書いた。
地球に隕石が落ちて主人公が夢を叶えられないままに死んでゆく話だとか、入社式に行ったら自分はすでに死んでいてそこは冥界だった話だとか、就活で挫折して引きこもりになった男が虫のバケモノになった話だとか、人類が自殺ウイルスに感染して滅亡に向かうなか主人公がハローワークに行く話だとか、いろいろ書いた。ひどいやつをたくさん書いた。ボクはただ、自分の書く物語によって自分自身を救いたかった。
そのために、虚構の世界でたくさんの人を殺したし、街を壊した。そして登場人物が気に入らなければリライトをしてそのキャラ自体を《存在しなかった》ことにした。何度も創っては壊した。
ボツになった設定資料、未完の原稿、破綻したプロット、たくさんの出来損ないのデーターが次から次へと生み出されて、自分の周りは創作物の残骸を入れたゴミ袋でいっぱいになった。身動きの取れないゴミ屋敷だ。
原稿を書いていると、時たま作中のキャラクターが「お兄ちゃん、こんな不毛なことはやめてもう一度就活に挑戦しようよ」と説教をしてきた。頭にきたボクは創作世界にナメクジオバケを解き放って彼女を死なせた。
身勝手な神様のせいで、人が生まれ、世界が動き出す。そして人が死に、世界が壊れる。目的を果たすまで何度も何度も、新しい物語は生まれ続ける。
自身の創作物によって自己を救うことはできるか。
創作による自己救済は可能なのか。
新条アカネは、ボク自身である。
彼女が負の感情から怪獣を生み出したように、負の感情は得てして創作に昇華される。
ボクの書く物語には、裕太や六花や内海はいるのだろうか。あるいは生みの親である作者に反旗を翻して立ち向かってくれるアンチ君はいるのだろうか。
お願いだ――、助けてくれ、グリッドマン――。
(了)
文字単価0.1円で発注されるライティングタスク案件の正体
ランサーズやクラウドワークス等では「1文字単価0.1円」を下回るライティングタスク案件が数多く見つかる。
僕の平均筆速は時速1,600文字程度だから、これでは時給160円しか稼げない。小説家トップクラスの速筆を誇る森博嗣さんでさえ、1時間に進める原稿は6,000文字くらいだとインタビューで答えている。*1
すなわち、文字単価0.1円の案件というのは、常人はもちろん神様レベルの速筆家でも最低賃金を上回ることが不可能な案件であると言える。
しかしながら、このような低単価ライティングタスクは思いの外人気が高く、発注者が設定した作業枠がすべて埋まることも珍しくない。
なぜかというと、受注のハードルがとても低く、クライアントとのコミュニケーションコストも発生しないからだ。
提出した記事はクオリティが低くともほとんどの場合で承認される。修正指示が飛んでくる心配もない。
発注者側も文字単価0.1円で募集をかける以上、記事のクオリティは一切求めていない。「一切求めていない」とまで断言してしまうのは、その記事の利用用途ゆえんである。
ゾンビブログはどのようにして生まれるか
にわかに信じられないかもしれないが、古典的なブラックハットSEOは今なお健在である。古典的なブラックハットSEOとはすなわち「被リンクの偽装」だ。
"Content is King" , "SXO"(ユーザー体験最適化)の時代においても、被リンク獲得数は未だ検索順位に影響を与える。たくさんのサイトやブログからリンクを貼られたコンテンツを検索エンジンは「信頼できる」と判断し、検索結果の上位に表示する。
そこでブラック・アフィリエイターたちは
- メインサイト(アフィリエイトで稼ぐサイト)
- サテライトサイト(メインサイトにリンクを送る用のサイト)
- ゾンビブログ(サテライトサイトにリンクを送る用のサイト)
の多段ピラミッド構造にサイトを分け、メインサイトがさも自然な被リンクを獲得しているかのように検索エンジンに誤認させる。
もちろんこれは、Googleの策定する『品質に関するガイドライン』違反である。*2
2013年頃に、僕は『新卒者就職応援プロジェクト』という経済産業省の就職支援制度(インターンシップ)を利用していた。
そこで紹介された実習先企業が、上記のブラックハットSEOをやっていたアフィリエイト事業法人であった。
その企業では5名ほどの実習生を受け入れ、Web制作の練習と称して被リンクスパム用のゾンビブログを大量生産させていた。僕は実習生としてそこで数ヶ月働いていた。
毎日(IPアドレスを変えて)大量のメールアドレスとブログアカウントを取得する。自動ライティングツールやクラウドソーシング経由で入手した記事をブログに貼り付け、ブログがインデックスされたらサテライトサイトへのリンクを送る。
読者に決して読まれることのない、被リンク獲得のためだけの無味乾燥な文章の羅列。ゾンビブログの数は、自分の担当分だけでも1000を軽く超えていた。
国の助成金が結果的にはブラックハットSEOの会社に悪用されていたというわけである。
さておき、冒頭に挙げた「文字単価0.1円のライティングタスク」は往々にして、ゾンビブログ生成のために使われている。だから記事のクオリティなんてどうでも良いし、キーワードの入ったオリジナルの文章でさえあれば何でも良いのだ。
こんな小手先のSEOは、とっくに過去の遺物となったものだと思っていた。
そうであればどんなに良かったか。
2018年12月現在、ライティングタスクの追跡調査を独自に行ったところ「ゾンビブログ案件」は未だ健在であった。
クラウドソーシングの闇はまだまだ深い。
(了)
*2:品質に関するガイドライン:Doorway pages - Search Console Help
挫折、敗北、失敗、虚無感、悲しみ、およそこれらの絶望についての話
仕事やプライベートでつらいことが続き、キーボードは一打鍵が鉛のように重く、筆はナメクジが這うよりも進まない。顔が濡れ、愛と勇気を失い、そのうえジャムおじさんとバタコさんから見捨てられたアンパンマンのごとく、生きる力が根こそぎ奪われている。
3年間にわたり仕事として引き受けてきた、あるプロジェクトがご破算となった。
これまで私が設計・運営に携わった数十のウェブサイトが消えた。書いてきた数百の記事コンテンツが消えた。海の藻屑となって消えてしまった。跡形もなく消えてしまった。
よくあることだし、これ自体が悲しみの原因というわけでもない。ただ、「このサイトにアクセスできません(ERR_NAME_NOT_RESOLVED)」の真っ白な画面を眺めていたら、操り人形の糸がプツンと切れる音がした。
〆切に追われて胃をキリキリと痛めた日々だとか、理不尽な修正指示に耐え続けた結果が、この真っ白な《無》だったというだけだ。特段珍しいことではないし、過去に経験がないわけでもない。
ただなんというか、私はまだ就職活動での失敗を引きずっているのだと思った。内定を得ることは、学生が社会人になるための通過儀礼である。イニシエーションを乗り越えられなかった若者は周囲から見下されるし、良くても憐れまれる。
就活で失敗をすると、他者から認められること、社会人として評価されることのハードルがものすごく上がってしまう。
しばしば「就活をやめてプロブロガーになります!」「新卒でフリーランスになります!」とブログで宣言した人が、はてなブックマークのコメントでこてんぱんに叩かれているが、本人としては相当に辛いのではないか。
彼らの多くがおそらくは「サラリーマンにならなかった」わけではなく「サラリーマンになれなかった」のであり、自ら好んでレールを外れたというよりは、やむなくレールを外れざるを得なかったのだろうから。
もっとも、このあたりの恨み嫉みを述べるとそれはただのルサンチマンであるし、精神的に健全であるとは言えない。
なんにせよ、成功体験を積み上げられない挫折続きの人生では、自己肯定感を育むことができず、危ういことになる。
恨み、憎しみ、わななき、怖れ、止むなくもつらき労働の冬は、
今し、ふたたび、わが身のうちに、帰り来らんとし、
北極の地獄に落ちし太陽に似て、わが心は、
凍りたる赤色の、一塊に過ぎざらんとす。
(引用:「ボードレール詩集」秋の歌より抜粋/堀口大學 訳/1951年 新潮文庫 p.75)
デカダンス(退廃主義)は芸術に昇華できるのなら美しく人の心を打つ。しかし昇華できないのなら朽ち果てたカラスの死骸も同然である。虚無や絶望に酔いしれ、溺れないようにしたい。
高校バドミントン部を題材としたスポーツ漫画「はねバド!」では、主人公が他者に対してリスペクトを持てずに悩むシーンが描かれる。
主人公の悩みに対してコーチは、本人が他者へのリスペクトが持てないと言うのならば、無理にリスペクトを持たせることに意味はない、と考える。
その上で「競技そのものに対してリスペクトを持て」とアドバイスをする。バドミントンが好きで、バドミントンそのものにリスペクトが持てるようになれば、やがてはバドミントンに携わるすべての人を愛せるようになるだろう、と。
これは自己肯定感が欠如する人にも同じことが言える。自分で自分を認められない、信じられない、好きになれない。肯定できない。
そんなときは、自己からひとまず目を離して、愛するものに目を向けたい。
私は自分の書くものには自信が持てないが、創作そのものを愛している。
失敗や挫折が重なり、自己嫌悪と自己不信が渦巻くなか、たとえ自分を信じることができなくとも、自分が心から愛するものに目を向け、その愛する気持ちと、それを愛する自分を信じて、前に進みたい。
(了)
自転車用の「暗証番号ボタン式リング錠」がかなり便利だった話
今年の《もっとはやく買っておけば良かった!便利アイテム》の優勝候補が、GORINから販売されている『Vブレーキ用リング錠 BLACK GR-523』だ。これは本当に、あと3年、いや10年くらい早くに買っておけば良かったと後悔した。
GORIN GR-523はクロスバイク用のリング錠だ。
その特徴としては「鍵が不要」であること。
キーレス式で、四桁の暗証番号のボタンを押すことで解錠できる。なおVブレーキではない一般的な街乗り自転車用のタイプも販売されている。
写真のように後輪のVブレーキ部分に簡単に取り付けられる。
四桁の暗証番号は元から決まっており、自分で設定したり変更したりすることはできない。また、番号を押す順番も関係がなく、とにかく4つの番号が合っていればOKというタイプ。
10個の数字ボタンのうち4つの数字ボタンを押して解錠する。つまり組み合わせは10C4で、210通りとなる。万が一暗証番号を忘れても力技でロックを突破することは可能だ。(もちろんリング錠そのものを取り外した方が早いが)
「暗証番号ボタン式リング錠」のメリット
自転車の鍵を探す手間から解放される。
本製品のメリットはひとえにこの一点のみに集約される。
ボクも片付けるのが下手なタイプで、物をよく無くしてしまう。自転車の鍵はまさに無くしやすいものの典型例で、急いでいるときに限って自転車の鍵が家のどこにも見当たらない。
自転車の鍵が見つからなくて、かれこれ30分以上家中を探し回った結果「ポケットに入ってるじゃねーか!!!」とずっこけた回数も数え切れない。
あるいは外出先から戻って駐輪場に停めた自転車を取り出そうとしたときにも、鍵が見つからないことがよくある。大抵はカバンの奥底の隙間に入り込んでいたりするのだが、見つけるのに随分な時間がかかってしまう。
そういった「自転車の鍵が見つからない!!」といったトラブルから解放してくれるのがこの暗証番号ボタン式リング錠の素晴らしさだ。
自転車の鍵が毎回見つからなくてイライラさせられている人には、本製品を心からおすすめしたい。
デメリットはセキュリティの低さ
4桁の暗証番号があるとはいえ、組み合わせはたったの210通り。セキュリティはお世辞にも高いとは言えないです。高級なロードバイクやクロスバイクでは、本製品のような簡単にロックが外れてしまう鍵の単体使用は推奨できないです。盗難される危険性があります。
加えて、暗証番号タイプのリング錠は
- ロックをかけ忘れやすい
- 解錠後、凹んだボタンを元に戻さないと他者から暗証番号が丸わかりになる
といった欠点がある。
ボクが使っているクロスバイクは街乗り用のめちゃくちゃ安いやつなので、盗難されるリスクは低いと考えている。しかし高級自転車では上記のようなデメリットがあることは知っておきたい。
なお上記製品は、Vブレーキ装着車(クロスバイク等)専用で、それ以外の自転車には取り付けられないため注意。
いわゆるママチャリ用の暗証番号タイプリング錠であれば「GORIN ボタン式リング錠 GR-500 K」か「GORIN ボタン式リング錠 GR-520 SL」が対応製品となる。(いずれもリンク先はAmazon)
以上、暗証番号タイプのリング錠は私的になかなか便利で良かったという話でした。
(了)