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五条ダンのブログ。「楽しく書く」ための実践的方法論を研究する。

あめゆじゆとてちてけんじや

「六甲のおいしい水を買うてきてほしいんやけど」と頼まれたのは、妹が緊急入院をして三日目の朝だった。病院食が喉を通らない絶食の状態で、点滴注射が痛々しい。小さく笑みをつくって、妹は六甲のおいしい水が飲みたいと言った。

 僕は頷いて病室の外へ出る。よくわからない焦燥感に追われるように、病院のフロアを歩き回り、自動販売機を探す。六甲のおいしい水。僕の住まう地域では昔から馴染みの深いブランドで、我が家でその言葉が使われるときは一般的なミネラルウォーターのことを指す。

 さておき自動販売機だ。経口補水液やらスポーツドリンクやらお茶やらはあるのに、ふつうの水がどうしてか売っていない。強いていえば「いろはす」という透明なボトルが、どうやら天然水らしい。しかし以前にミネラルウォーターだと思って「いろはす」を買ったら、炭酸が入っていたり、またあるときはミカン風の甘味がついていたり。いろはすの製品ラインナップを熟知していない僕にとっては、買うのに抵抗がある。

 結局、病院を出て自販機を探して走る。妹の病状が急変したというのに主治医は海外に行ってしまっており帰国に数日かかる。恨み言を吐いても僕には何もできない。自販機を探すと同時に襲いくるのは途方もない無力感であり、自分には何もできない、ひとえにその兄としての情けなさである。

 ふと(あめゆじゅとてちてけんじゃ)のフレーズが頭をよぎった。中学か高校の国語の授業で習った、宮沢賢治の詩作。表題は、永訣の朝。

 けふのうちに
 とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
 (あめゆじゅとてちてけんじゃ)

 の書き出しで知られるこの詩は、若くして世を去った妹の死を悼んで書かれたものである。詩の全編は「宮沢賢治 『春と修羅』 - 青空文庫」でご覧いただきたいが、永訣の朝のなかで(あめゆじゅとてちてけんじゃ)の言葉は四回も繰り返される。

 熱に浮かされた妹が『雨雪を取って来てちょうだい(あめゆじゅとてちてけんじゃ)』と賢治に頼んで、賢治は妹のことを想いながら雪のみぞれを集めに行く。

 改めて読み返すと、これほどに、切実で、切迫した、悲しい歌があるだろうかと心に突き刺さる。

 もっとも雪のなかみぞれを取りに行くのと、自販機でミネラルウォーターを買いに行くのとでは、天と地ほどの差があるのかもしれない。しかし薄暗い曇り空を見上げるとどうしてか(あめゆじゅとてちてけんじゃ)が幾度も想起されては、胸が痛くなるのである。

 結局、自販機を四台回ってもふつうの水もといミネラルウォーターは見つからない。けれど初めからそんな徒労に明け暮れる必要はなかった。病院の目の前にあるセブンイレブンに行けばよかったのだ。

 僕はセブンイレブンで「奥大山の天然水」なるブランドのミネラルウォーターを買って、病室に戻った。妹は目を閉じていた。

 原因もよくわからない。ましてや未成年で本来かかるような病ではなく、不可解な点が多い。退院の目処は立たない。

 不安な気持ちになり、病名でGoogle検索をかける。案の定、名のなきライターが書いたであろう、医療系キュレーションサイトの記事で埋め尽くされている。WELQ(ウェルク)の炎上騒動のときには、どこか他人事な気持ちがあったかもしれない。

 いざ当事者になってみると、思う。これはたしかに、罪なのだ。単に一個人や一企業だけが背負えるものではない、インターネットという巨大な、資本と情報との過剰結合が生み出した、罪なのだと。

 手元のタロットカードを一枚引く。

 出てきたのは小アルカナのソード「剣10」の逆位置だった。

 

 時間はかかる。

 今はじっと、夜明けを待つしかない。

(了)


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