執筆スランプを抜け出すには30分あれば良いという話
文筆業を営む者にとってオバケよりも恐ろしいのが「執筆スランプ」だ。僕は専業Webライターとなって3年になるけれど、スランプオバケにはたびたび悩まされている。
文章を書くのが好きでライターやってるんでしょ?とよく言われる。でもぶっちゃけてしまえば、文章を書くのは基本的には苦しいし、面倒だし、やる気が出ないときもある。(いや、日常茶飯事だ)
それでも、筆一本に生活が懸かっている。
やる気がなくても、本気を出せなくても、あるいはうまく書けなくてベッドの上をのたうち回ることになっても、僕は原稿を書き上げなくてはならない。
すなわち執筆スランプを抜け出すための「実用的なノウハウ」が必要なのだ。
先延ばしをするのは好きでないので、結論を最初に書いてしまおう。僕は執筆スランプを回避するため、あるいは抜け出すために、下記のルールに従って執筆している。
- 執筆時にはストップウォッチを用意する。「STARTボタンを押したら書き始める」と条件付けしておく。
- ストップウォッチでは「カウントダウンモード」を使い、30分後にアラームが鳴るように設定する。
- 調子が悪いときは30分で500文字、調子が良いときは30分で1,000文字を達成するように原稿を書き進める。とにかく、30分だけで良いので集中して取り掛かる。
- 30分後にアラームが鳴り、筆が乗っていたらそのまま書き進める。疲れていたら休憩に入り、ストレッチをしたり少し散歩をしたりする。10分~20分くらいの休憩が終わったら、またストップウォッチのボタンを押し、30分間集中して文章を書く。
「ストップウォッチ」は執筆の良き友である
『パブロフの犬』はご存知だろうか。犬に餌を与える前に、ベルの音を鳴らす。習慣を続けていると、やがて犬はベルの音を聞くだけでよだれを垂らすようになる。ロシアの生理学者イワン・パブロフによる『古典的条件づけ』である。
我々人間も『◯◯の合図で△△する』という条件付けをしておくと、物事に取り掛かりやすくなる。学校のチャイムが鳴ったら、授業が始まるのと同じように。
在宅ライターはとくにそうなのだけれど《プライベートモード》と《仕事モード》の切り替えがやりづらい。ついつい執筆中にツイッターのタイムラインをぼーっと眺めたり、ニコニコ動画でアニメを見始めたり、はてなブックマークでブコメ巡りに時間を潰したりと、脱線しがちだ。
1日が終わる頃には原稿がまったく進んでおらず(ああ、僕はなんて意志が弱い人間なんだ!!)と後悔を抱えてベッドに潜り込むハメになる。
それを回避するためのアイテムが……。
ストップウォッチ!!
そう、ストップウォッチは執筆の良き友である。
僕が使っているのはセイコー(SEIKO) ALBA PICCO MULTITIMER ブラック ADME001という3,000円ほどのストップウォッチなのだけれど、重要なのはカウントダウン機能があること。時間をカウントダウンし、アラームを鳴らしてくれる機械であったら何でも代用できる。
キッチンタイマー、目覚まし時計、スマホのカウントダウンアラームでもOK。(ただしスマホを使う場合は、執筆に集中するためツイッターやメールの通知を切っておいた方が良い)
で、冒頭のパブロフの犬とどう繋がるのかと言うと「ストップウォッチのボタンを押したら執筆を開始する」という条件付けがやりたいのだ。
速筆で有名な西尾維新さんも執筆中にストップウォッチを使っている、と言えば、少しは信憑性が増すだろうか。(※ソース:西尾維新さん - あのひとの「ほぼ日手帳」 - ほぼ日手帳2014)
とにかく、ストップウォッチのボタンを押したら原稿を書き始める、と決めておこう。
執筆スランプなんて怖くない。「書かなきゃ!」と意気込む必要はまったくない。
ストップウォッチのボタンを押しさえすれば、頭が《執筆モード》へと切り替わるのだから。そのような習慣を身につけておくと、後々楽である。
30分の時間的制約を設けて執筆に集中する
冒頭にも書いたように、ストップウォッチはボタンを押したら「30分のカウントダウン」をし、残り時間ゼロでアラームが鳴るように設定する。もちろん30分でなくても良いのだけれど、集中力は時間的制約のなかで発揮しやすい。
ストップウォッチは、集中して原稿に取り掛かるための手助けをしてくれる。
ところで一般的なWebライティングでは、重めの案件だと「1記事6,000文字」くらいの記事ボリュームとなる。執筆には(僕の平均だと)8時間はかかり、なかなかにしんどい。
好きなことを書くならいざ知らず、クライアントの要求に応えた6,000文字を書くのは大層骨が折れる。こうした「大変さ」が執筆スランプを引き起こす。
長編小説を書くのは、さらに挫折しやすい。「あと10万文字も書かなきゃいけないなんて……」と思うと足が竦み、書き進める勇気が削がれてしまう。
だけど思い出してほしい。6,000文字の記事だって、10万文字の長編小説だって、100文字程度の文章の積み重ねに過ぎない。「困難は分割せよ」とデカルトは言った。執筆も同じだ。
「とりあえず30分だけ、500文字だけで良いから書いてみよう」と書き始めてみることは極めて重要である。
たった30分、たった500文字だけでいい。一旦書き始めてしまえば、筆が乗ってくる。書き始めなければ、いつまで悩んでも書けるようにはならない。
「書けない悩み」の大半は「書き始められない悩み」と言い換えられる。とにかく、30分書き続けたなら、頭が執筆モードに切り替わる。
僕の場合は、調子が乗らないときは「30分で500文字だけで良いから書こう」と決めている。500文字でハードルが高ければ、200文字でも構わない。調子が出ているときであれば30分1,000文字も行けるが、とにもかくにも1文字でも2文字でもまずは書き始めることだ。
30分単位で時間を区切って、集中して執筆に取り掛かる。1時間だとハードルが上がるし、10分だと原稿を書くには短すぎる。私的には30分が《執筆モード》に入るのに程よい時間と感じる。
僕は例えば「今日は30分枠×12本で仕事を終わらせよう」と1日の初めにスケジュールを立てている。
「30分だけ」と考えることで物事に取り組むときの面倒臭さが軽減されるし、集中して取り掛かることができる。
これは「ポモドーロ・テクニック」と呼ばれる時間管理術をアレンジしたやり方なのだけれど、仕事になかなか集中できない在宅ライターにはおすすめの方法だ。
詳しくは
の記事にも書いたので、宜しければぜひ。
話が大分バラけてしまったのでもう一度まとめよう。執筆スランプを抜け出すために僕が実践している手法は次のとおり。
- ストップウォッチを用意する。ストップウォッチのSTARTボタンを押したら執筆を開始する、という習慣をつける。
- 30分のカウントダウンでアラームが鳴るように設定する。「とりあえず30分で原稿を500文字進めよう」と達成できる目標を決める。
- やる気が出なくても大丈夫。ストップウォッチのボタンを押したら、とにかく目の前の原稿を1文字でも2文字でも書き進めていくことに集中する。
- 30分後にアラームが鳴り、筆が乗っていたらそのまま書き進めても良し。疲れていたら休憩に入ろう。ストレッチをしたり少し散歩をしたりする。10分~20分くらいの休憩が終わったら、またストップウォッチのボタンを押し、30分間集中して文章を書く。
メリハリをつけて「集中」と「休憩」を繰り返すこと。それが、執筆を無理なく持続させる一番のポイントかもしれない。
(終わり)
「好きなことで生きていく」を巡る、強さと正しさと主にアニメの話
「好きだから、楽しいから」で行動をする強者たち
『灼熱の卓球娘』の第1話を見た。2016年の秋から始まった新アニメだ。可愛い女の子たちが部活で卓球をするお話なのだが、萌えだけでなく(スポ根的な)燃えもあって、面白かった。
1話は《上矢あがり》というツンデレっぽい女の子の視点で話が進む。彼女は卓球部のエースで、校内ランク1位の実力を誇る。人前では謙虚に振る舞うのだけれど、内心では「他者からチヤホヤされること」が大好き。自分が称賛を浴びるイメージを頭に浮かべては、ひとりでニヤニヤと微笑んでしまう。そんな人間味あふれるヒロインだ。
上矢あがりは、誰にもエースの座は渡すまいと、毎朝ひとりで早くに部室に来ては卓球の練習に打ち込む。真面目で努力家で、後輩にも慕われている。彼女の地位は不動のものと思われた。
そこに突如として現れたのが、天才的に卓球がうまい転校生である。転校生は、他者からの称賛とか関係なしに「自分が楽しいから卓球をやる」という最強のメンタルの持ち主だった。あがりと転校生は、エースの座をかけて決戦をすることになる。
作品紹介はこのくらいにして、スポーツにせよボードゲームにせよ「好きだからやるんだ!」の行動原理を持つキャラは、圧倒的強者として描かれる。
称賛のため、金のため、エゴや承認欲求のために行動する者は、好きで行動する者の前に打ち破れる。傾向として、フィクションの世界では《楽しさ》が行動原理の《解》として提示されるケースが多い。
麻雀漫画の『咲』でも、主人公は「麻雀って楽しいよね!(ニコッ」と微笑みながら相手を次々とゴッ倒していく。『テニスの王子様』や『ヒカルの碁』もそうなのだが「楽しい」はとにかく主人公にとって、最重要キーワードとなっている。
「好きなことで、生きていく」はユーチューバーのキャッチコピーだったか。響きの良い言葉で、実際にこの格言によって人生を動かした人は少なくないだろう。
たしかに、好きをエネルギーに変えられる人は強いのだ。
他者の評価に揺れ動かされない人たち
ところで僕は『グラスリップ』というアニメの熱狂的なファンである。グラスリップを超える神アニメはないと、胸を張って言える。
しかし悲しいことに、グラスリップは世間での評判がすこぶる悪い。悪いどころではなく「史上最悪のクソアニメ」とまで言われ、ネタとして馬鹿にされるくらいなのだが、とにかく不遇の作品である。
(Amazonのレビューでも星1が一番多い……)
まったくグラスリップの良さも分からんとは同じアニヲタとして嘆かわしい。と毒づきたくはなるものの、ここで述べたいのは「周りがどんな評価を下そうとも、自分の好きな気持ちは変わらない」という当たり前の事実だ。
好きを行動原理にできる人は、強い。他者から評価されなくても、馬鹿にされても、彼らの心は折れない。エネルギーが自分の内側から湧いてくるからだ。
好きでありながらも自惚れないこと
さておき、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、物書きの創作理論書としても使えるのではないかと考えている。ツァラトゥストラが示すのは、孤独な創作者の道である。
《好き》を行動原理とする者は、自惚れたり自己満足に陥ったりで成長できないのが弱点となるのかもしれない。
ツァラトゥストラは、創造する者に道を指し示す。「自分自身に《大きな愛》と《大きな軽蔑》を向けよ」と。
愛する者は、軽蔑しているから、創造しようとするのだ! 自分の愛しているものを軽蔑しなくてすむような人間に、愛の何がわかるのだろう!
兄弟よ、君の愛といっしょに、そして君の創造といっしょに、孤独になるのだ。
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ(上)』 光文社古典新訳文庫/丘沢静也訳 p.130 創造する者の道について)
「好きなことで、生きていく」は、孤独な道でもある。
小説を書いたとき、生み出した作品は、まず自分自身で愛してやる必要がある。だが、愛だけでは自分を超えられない。愛ゆえの大きな軽蔑を向けて、自惚れることなく前に進んでいかなければならない。
なんとも、険しい道だ。
「好き」「楽しい」は絶対的な正しさではない
僕としては、楽しいならばそれに越したことはないけれど、楽しさに固執する必要もないかなと考えている。冒頭のアニメ『灼熱の卓球娘』でも、チヤホヤされたーい♪というヒロインの欲求にたいそう共感してしまった。彼女にはぜひ幸せになってほしいものだと感ずる。
小説でも漫画でも「作者が何を思って創作したか」は読者にとって重要ではない。作者と作品は、切り離される。好きで書かれた小説も、金のために書かれた小説も、承認欲求のために書かれた小説も、まったく等しい価値を持つ。
おおよそこのような雑感を『灼熱の卓球娘』第1話を観たときに抱いたもので、ここに感想メモとして残しておきたい。
深夜アニメは面白い。
(了)
「主観的な文章はダメ!」というWebライターの縛りと逆張り戦略
Webサイトやブログを運営していて「PVを伸ばしたい」と考えるのであれば、おそらくこれから話す情報は知っておいても損はないと思う。
結論から述べると、Webライターは「主観的な文章」や「自分の体験談」を書くことができない。もちろん、すべてのWebライターに当てはまる話ではないのだが、この《縛り》に拘束されているライターはかなり多い。
クラウドソーシングにおける「主観禁止」の原則
一般社団法人日本クラウドソーシング検定協会の発行する「WEBライティング技能検定講座 実践編」のテキストには『客観的でない文章の削除』を推敲時にせよと書かれている。(p.80)
同じく高単価Webライティングのお仕事サイト「サグーワークス プラチナライター」においても、基本的に『主観的な文章や体験談はNG』とされる。
サグーワークスの上記記事では、2つの例文を対比して客観的に第三者目線で書くことの重要性を紹介している。
①「このお店のケーキは北海道産の牛乳と、近くの農場で取れた新鮮な卵を使っていて、大変人気が高いケーキです」
②「このお店のケーキはクリームがとても甘くって、使っている卵もスーパーとは違う農場の卵を使っているから美味しいんです!」
引用:同上
①の文章は「客観的」だから採用されるが、②の文章は「主観的」だから失格だと書かれている。
主観的な②よりも客観的な①のほうが読者にとって分かりやすいでしょ? だから「私が感じたこと」を書いたらいけませんよといった主旨の記事だが、うーむ……あくまで《読者目線》としては首を傾げざるを得ない。
例えば検索ユーザーがケーキ屋さんの情報を調べているとして、読みたいのは「大変人気が高いケーキです」なんて他人事の文章ではない。「クリームがとっても甘くって美味しい!」という体験談の方が知りたいはずだ。
客観的情報が知りたければ、公式サイトを見れば良い話。①の文章は(辛辣に言わせてもらうならば)ケーキ屋さん公式サイトの情報を焼き直しただけで、新しい価値を生み出せていない。
WEBライティング技能検定講座でも「事実と感想が入り混じった文章は好ましくない。客観的でない文章は削除せよ」と指南されている。僕は(うーん…本当かなぁ……)と思ってしまう。
上記に挙げた①と②の文章なんかは「事実と感想を混ぜる」ことで良くなるのではないか。
(修正案)このお店のケーキはクリームがとっても甘くて美味しいんです。生地には北海道産の牛乳と、近くの農場で取れた新鮮な卵が使われているんだそうです。
このように主観と客観を混ぜても、文章はおかしくならない。
とにかく、Webライターには「主観的な文章は書けない」という縛りが、ある程度は存在する。
「主観を排したい」はクライアント目線なら分かる話
さて、上で書いたのは《読者目線》の話だった。これが《クライアント目線》であれば、主観的な文章を排したい気持ちはよく理解できる。
クラウドソーシングで納品されてきた記事が、体験談や主観記事ばかりだと大変困る。Webメディアとしての整合性や一貫性が取れなくなるし、企業のオウンドメディアで「このケーキ屋さん美味しかった!」と書いてしまえばステマかと疑われてしまう。
ライターの顔が見えない記事の方が、使い勝手は良いのだ。
断り書きをしておくと、「客観的な文章」も「主観的な文章」もケース・バイ・ケースで使い分けられるべきであり、両者は等価値である。優劣もない。当記事は、Webライティングの世界で「客観(第三者目線)」が重視されるのであれば、その逆張りができるのではないかと提案するものである。
ところで、僕もWebメディアをいくつか運営していて、外注化できないものかとランサーズで発注をかけてみた。
そのときは主観的な文章の方を求めていて「ご自身の経験と体験に基づく、料理についての記事を書いてください」という内容でプロジェクトを進めた。しかし、上がってきた記事は(恐ろしいほどに)主観が取り除かれた記事であった。
『トマトにはリコピンが含まれています。リコピンには抗酸化作用があり血糖値を下げる働きがあります。トマトを使った料理は美肌にも良いとされます』
といった情報の羅列。たしかに客観的ではあるものの、どこか無機質で《語り手が今ここに生きている》という実感が得られない。ライターが自分の心を押し殺していると感じさせる記事で、悲しいような申し訳ないような気持ちになった。
サグープラチナライターの2倍くらいの単価で(大盤振る舞いして)発注をかけたのだが、寄せられてきた記事がそのようなものばかりでさすがに参ってしまった。もちろん依頼の仕方が下手だったことは、こちらに責任がある。
今回のミスマッチは「主観的な文章はダメ」という暗黙の認識によるところが大きい。Webライターはなかなか自由には文章が書けない。それは僕自身がそうであるので、痛いほどよく分かる。
「クライアントが求める記事」と「読者が求める記事」の乖離
ここまで述べてきたように「クライアントが求める記事」と「読者(検索ユーザー)が求める記事」との間には少なからず乖離が見られる。そしてWebライターは「主観的に書けない」という制約に縛られている。
それに、クラウドソーシングで発注されるライティング案件は「1文字単価◯円」という取り決めはあるけれど、記事を書くのに必要な「取材費」が貰えるケースはほとんどない。
ゆえにクラウドソーシングライターは、基本的には他のWebサイトから情報を引っ張ってくるしかなく、(赤字になるため)満足な取材ができないといった縛りもある。
逆説的に、こうした現状は(自分で自由に記事を書くことのできる)アフィリエイターやブロガーにとってはチャンスと言える。
すなわち《実際の体験や取材》に基づく主観的な記事が書ければ、コンテンツの差別化が図りやすい。
検索ユーザーが知りたいのは本当に(公式サイトを調べた方が早いような)客観的な情報だろうか。Webライティングでは悪手とされる「書き手が何を感じ、何を思い、何を考えたか」という主観的情報は不要なのか。
僕の願望となってしまうが、これからの時代は「体験型コンテンツ」だ。書き手が今ここに生きている、という息遣いの根付いた文章が、ネットには増えてほしい。
終わりに
最後に、このブログで一番アクセスを集めている記事を紹介したい。意外に思われるだろうか。本ブログのテーマ「Webライター」とはまったく関係のない、下記の記事である。
「胃カメラ怖いよぉ……」と泣きべそをかきながら、渋々病院に行ったお話なのだが、かなりたくさんの人に読まれている。
検索キーワードを見ると「胃カメラが怖いので会社を辞めたい」とか「怖い胃カメラの予約キャンセルしたい」とか切実な言葉が並ぶ。そのような人にあの記事が届いたのならば、物書きとしてこれほどに嬉しいことはないし、胃カメラの恐怖をやわらげるのに少しは役立てたのではないかと思っている。
他にも20ほどのWebサイト・ブログを運営していて、やはりアクセス解析で調べると「リアルな実体験や取材」に基づく記事は、集客がうまくいっている。
僕は、Webライター・アフィリエイター・ブロガーとしては成功者側の人間ではない。だから偉そうなことは言えないし、これが正解だともいえない。
ただ、検索ユーザーの需要に応えるWebコンテンツの作り方として「自分にしか書けない体験を書く」というじつにシンプルかつ明快な戦略は《強い》のではないかと感じた今日この頃である。
(終わり)
ゲオ宅配買取でPSVitaを売った話(備忘録)
PSVitaをゲオ宅配買取で売ったのはもう去年(2016年10月)の話になるのだけれど、とりあえず備忘録というか、メモ書きとして残しておきたい。
PSVitaを売った経緯
もともと不要になって(そのまま捨てるのは勿体無いなと思い)売っただけなので、高値で売りたいとかそういうことは一切考えなかった。近場にリサイクルショップがなく、じゃあまぁゲオの宅配買取でいいかーということで。
ちなみに送料はゲオ側が負担してくれる。こちらはダンボールと梱包材(ぷちぷち)を用意すれば良いだけで、あとは指定の時間に佐川急便の人が家まで引き取りに来てくれた。伝票についても向こう側で用意してくれた。本当に手間なく送れる。
家にはAmazonのダンボール箱が幾つかあったし、プチプチも捨てずに置いていたのがあった。とくに用意しなければならないものはなかった。
一週間後くらいには指定の銀行口座に(PSVitaを売った代金が)入金されていた。
なお、情報は2016年時点のもの。宅配業者だとか入金までの時間だとかは、人によってケース・バイ・ケースだろうと思う。
PSVitaはいくらで売れたのか
結論を述べると、PSVitaのPCH-2000シリーズ(Wi-Fiモデル)本体が1万円で売れた。かれこれ3年前に販売されたゲーム機であるし、1万で売れたのなら上々、不満はない。
ちなみにケーブル類の付属品や外箱、説明書等が完備の状態。箱と説明書を捨てずに丸々押入れに保管しておいたのが幸いだった。一応、箱に詰める前に、メガネクロスで本体を拭いて汚れを落としたり、ブロアー(一眼レフカメラの掃除に使うやつ)で埃を落としたり等の処理はした。
加えて、プレイステーションストアのアカウントと本機とのリンクを解除して、本体を初期化するのもこちら側でおこなった。
本機につけていたメモリーカードについても、フォーマットで初期状態に戻した。
驚いたことにメモリーカードの方にも値がついた。まさか売れるとは思っていなかったので、本機の中に入っていたのが32GBのものだったか64GBのものだったか確認するのを忘れてしまった。とにかくメモリーカードには3,000円の値がついた。
この価格で売れた、というのは正直言って、売る時期だとか商品の状態によって変わってくる。あくまで情報は参考程度にするのに留めてほしい。通常は時間が経過するにつれて価値は下がってくるから、(もしもこの記事が読まれるのが2018年とか2019年とかだったら)もうほとんど参考にならない情報だと思う。
ちなみにゲオ宅配買取が何かキャンペーンをやっていたためか、追加で600円くらいのボーナスがついた。
結論として、PSVita(付属品・外箱・取説完備)+メモリーカードで、13,600円で売却することができた。
まとめ
当記事はゲオの宣伝でも何でもなく(たまたま検索でゲオ宅配買取を見つけただけなので)とりあえずどこで売ったとしても売却価格が大きく変わるとは思わない。
高く売りたいならば、ヤフオクだとかで直接売るほうが得策かもしれない。
とりあえず個人の体験談として、何らかのお役に立てれば幸いに思う。
※情報は2016年10月のものです。売却価格を保証するものではありません。
文学フリマ大阪に初めて行ってきた所感
2016年9月18日(日)開催の第四回文学フリマ大阪に一般参加してきた。
学生時代にコミティア大阪に行ったことがあるのだけれど、あのときは人の多さに圧倒されてしまって、結局何も買えないままに帰ってきてしまった。同人誌イベントを実質的に楽しめたのは、今回が初めてだ。
以前の後悔を繰り返さぬよう「買うぞー! いっぱい買うぞー!」と意気込んで会場に足を踏み入れた。その甲斐あってか、1万円ほど散財してしまった。購入冊数は24冊。こんなに大人買いをしたのは人生初で、まさに文フリ恐るべし……。
会場は『堺市産業振興センター イベントホール』地下鉄御堂筋線のなかもず駅のすぐ近くにある。写真を見てのとおり、天気が悪かった。でも人はいっぱい来てた。
1.会場の雰囲気
入り口のところにサークルさんの一覧が掲載されたカタログが置いてあり、無料で貰える。入場料もかからない。入ってみると、小学生・中学生くらいの小さな子どもから、ご年配の方までいて、(イメージとは裏腹に)とても入りやすい雰囲気で驚いた。
ブースの前を歩いていると「どうぞ立ち読みしていってください」「パンフレットもしよければどうぞー」とサークルの方から声をかけられる。
正直なところ、小説は立ち読みでパラパラとページを捲ったくらいでは作品の巧拙を判断するのが難しい。だからサークルの方から声をかけてくださると、私のようなタイプの人間は(よっしゃとりあえず買うか)という方向に気持ちが動きやすい。
売るのであれば、やはり声掛けは重要だなと感じる。
あと、その場で立ち読みをしなくても、壇上スペースの「見本誌コーナー」でじっくりと作品を選定することができる。(声掛けられるの苦手だな…)という方は、最初に見本誌コーナーで買う本を決めてから、ブースの方へ足を運ぶとスムースに購入ができると思う。
人は午後3時過ぎあたりから結構まばらになってきて、空いてくる。コミティア大阪に行ったときはあまりの人の多さに頭がクラクラになってしまったが、文フリ大阪はゆっくりとブースを周れて良かった。(私なんかは会場を5周くらいはしてた)
本を買うと、おまけのくじ引きがあったり、飴ちゃんやお饅頭を貰ったり(さすが大阪?)、著者の方がサインをしてくださったり、トートバッグをつけてくれたりと、サービスに特色を出しているサークルさんも多く、やはりこういうのはイベントならではの雰囲気があって、なかなか楽しかった。
2.本について
プリンターで印刷したのをホッチキス留めした簡易的な冊子から、商業書籍顔負けのお洒落な装丁の本まで、さまざまある。ISBNコード付きの本もあった。
小説に限らず、詩、漫画、評論、絵本、ノベルゲーム、CD等、形式に囚われない作品が文フリには出されていて、ジャンルは非常に幅広い。《文学》の本質は《自由》であることを深く実感させられる。
今回の戦利品。合計で24冊手に入れて、使った金額は1万円ほど。正直ちょっと(初参加でテンションが舞い上がっていて)買いすぎた。通常の予算では5千円もあれば十分ではないかと思う。
購入した本のジャンルは純文学・SF・ライトノベル・百合・ホラー・アダルト・ファンタジー…etc
コミケではないけれど、財布に入っているお金をすべて使い切ってしまいたくなるような衝動に襲われる。気になる作品が多過ぎる。次回からは事前に予算をしっかり決めておかねば。
24冊で1万円だから、平均すると1冊416円くらいか……。しかし上記冊数には、無料配布でいただいたものや、まとめ買い割引のものも含まれている。なので1冊あたりだと平均600円~800円くらいになるとは思う。
値段としては、300円、500円、600円、800円、1000円の価格設定の作品が多い印象。文学フリマだから安く買えるといったことはなく、一般的な書店で出回っている商業書籍の価格帯とほぼ変わらない。(あくまで消費者目線だと割高に感じるとは思う)
紙の本を作って出版するというのは結構なコストがかかるもので、文フリで1冊1000円で売ったとしても「たいていは赤字だよー」とサークルの方は話していた。
3.文フリが終わってからが本番である
本は読むものである。作品は読まれなければ意味がない。
そしてもし最後まで読んだのならば、感想を著者の方へ届けたい。
読者としては、むしろここからが本番パートだ。私も買った本は積読にせず、じっくりと手に取って読んでいきたい。
今回文学フリマ大阪に一般参加してみて、ああ、これは私も出店参加してみたいな…と心底感じた。なんといっても作品の自由度が高い。自分の好きなものを書くんだ!という意志が、展示されている作品からひしひしと伝わってきて、売り手も買い手も創作に対して真摯であり、そのような雰囲気が、とても良かった。
来年も文フリ大阪に行きたいなと強く思った。決して入りづらい場所でも怖い場所でもないので、興味のある方はぜひ。
(終わり)
映画『君の名は。』小説を書くという視点から見た《夢》に関する創作的考察
※本記事は映画『君の名は。』の物語核心部分に触れる。これから映画を視聴される方にとっては、ネタバレとなる。すでに視聴済みであることを前提に話を進めるので、未視聴の方は避難されたし。
『君の名は。』において僕がもっとも心を動かされたシーンについて
本題から入る。
『君の名は。』の作中シーンで、僕がもっとも心を揺さぶられたのは瀧(たき)が糸守町の風景デッサンを完成させた、あの場面である。風景画が完成されたところで、僕はすでに泣いてしまっていた。
この記事では「なぜ瀧が風景画を完成させることが凄まじいことなのか」の1点に絞って、僕の得た創作的考察を伝えたい。
なお、記事中では「瀧の視点での物語」について取り扱う。混乱の元となるので、この視点は固定しておきたい。
0.前提条件の確認
大前提として、瀧(たき)と三葉(みつは)の入れ替わり現象が《夢》により生み出されるものであることを強調しておきたい。作中でも描かれているとおり、あの現象は「不思議な現実」ではなくて「不思議な夢」である。
神秘体験はあくまで夢の延長線上にある現象であり、決してSFが起きているわけではない。その辺りを混同していると「どうしてスマホで日記を付けていたのに時間のズレに気づかないんだ」なんておかしな疑問が湧いてくる。
夢なのだから、夢世界で体験した出来事は忘却されて当然である。また、夢の世界で現在の西暦を気にして違和感を持つことなど(たとえ明晰夢状態であったとしても)大変な困難を伴う。
「瀧(in三葉)が初日でバイトをあれだけ自然にこなしているのはおかしい」といった疑問も、その入れ替わり現象が、夢をベースとして実現されていることを考えれば不思議でもなくなる。理論武装するならば、ユングの集合的無意識云々の話を持ち出しても構わない。
とにかく、瀧と三葉は《夢》を見ていて、その《夢の世界》のなかで入れ替わっていた。この前提条件だけは絶対に譲れないので、しつこいようだけど繰り返しておく。本作で描かれる神秘現象は《夢》が主であり、《入れ替わり》は従たる性質を持つ。
1.実存性が否定されるヒロイン
瀧が糸守町の風景画を書き上げた時点では、(瀧視点で)三葉の実存性は確かなものとなっていなかった。つまり、三葉は《夢》の生み出した空想上の産物で、現実世界には存在していない可能性が大いにあった。
女子高生と入れ替わる程度のことは、明晰夢の技法を用いれば僕たちでも再現できる。明晰夢下では、視覚・聴覚・味覚・触覚・嗅覚は現実のそれと変わらないほどにリアルで鮮明であり、もちろん作中で描かれたように胸を揉むことだってできよう。
瀧(in三葉)が最初のダイブ時に「ええ夢やわー」と言っていたことからも、やはり神秘体験としては(現実ではなく)夢寄りなのだ。
電話番号やメアドを交換しても通じないし、三葉がこの世に存在していることはどうやっても証明できない。
「日記があるじゃないか」と思われるかもしれないが、あれこそ僕たちでも容易に再現できる。空想したキャラクターを身体に憑依させて文章を書く。小説書きにとっては日常茶飯事であり、トランス状態に入れれば執筆時の記憶はなくなる。
女子生徒の日記を書くことくらい、太宰治もやっている。(と勢いで書いたが、この部分はきっと突っ込みをくらうだろう。女生徒は太宰がゼロから創作したものではない)
さておき、とにかく重要なことは瀧にとって三葉は「夢の世界で出会った存在のあやふやな人物」に過ぎないということ。出会う、という表現が妥当かどうかは微妙だが「夢の世界で知った」と置き換えても構わない。
なにしろ、作中でも描かれているとおり、入れ替わり時の体験は忘却されゆく。この世界に生きていないかもしれない、夢の世界にしかいない空想上の人かもしれない。
そのような実存性が否定され得るヒロインを瀧は好きになったのだ。
だからはっきり言って「君の名は。」はそんな生易しい恋愛物語ではない。夢の世界で知り合った人物に恋をする、という狂気的な構造が内包されている。
※「夢じゃなかったんだ!」という台詞も作中には出てくるが、それはあくまで、瀧が風景画を描き上げるシーン以降の話となる。(ゆえにここでは扱わない)物語のポイントとしてはやはり、まだ出会っていない人物に恋をする(≒不確かな存在に恋をする)というところだと感じる。
2.糸森町の風景画を描く行為は何を指すのか
「どうして瀧は入れ替わり時に住所を確認しなかったの? 風景画を描くときはGoogle画像検索で『糸森町』を検索したら一発じゃん。あと高校通ってたら学校名も絶対覚えているよね」
なんて野暮な質問を投げかける人は、記事をここまで読んでくださった読者のなかにはひとりもいないことと信じている。
承知のとおり、たとえ明晰夢状態であったとしても《現住所を確認したうえで、それを記憶していること》は不可能に近い。基本的に、文字だとか数字だとか、そういった情報は(夢のなかで知り得たとしても)記憶できない。
これは、夢日記歴10年の僕が保証する。瀧も三葉も、忘却されゆく夢の世界で、ものすごくうまくやっていた。それ以上の機転を求めるのはあまりにも酷である。
ここまでくればもうお察しかもしれない。
「瀧が糸森町の風景画を描いた」という事実が、その事実以上の衝撃を齎すことを。
そう、瀧が描いたのは、ただの風景画ではないのだ。実体験に基づく記憶を頼りに描いた絵画でもないのだ。
彼は《夢》で見た風景を描いたのだ。
瀧が描いたのは、夢の世界である。
ちょっと気を逸らせば記憶から零れ落ちてしまう、しゃぼん玉のように儚くて脆い、夢の風景である。
作中であのシーンはわりとサラッと流された気もするが、瀧があの絵を描くためにどれほどの苦労と執念を費やしたのか、想像に難くない。
瀧は、三葉と現実で会うために、あの絵を描いた。
実在しないかもしれない少女のために、描いたのだ。
僕が深く感動を得たのは、瀧のやっていた行為が、僕たちのやっている「小説を書く」という行為と極めて似ていたからだ。
僕は小説を書く。
見た夢を忘れないために。空想で終わらせないために。架空の少女を実存させるために。
瀧は、あの風景画を描き上げた瞬間、藝術家となっていた。僕の目には、そう見えた。
3.名前を忘れるということ
夢のなかで友人や恋人をつくった経験のある人は、僕以外にもいると思う。(夢って願望を叶えるものだから)
僕は、じつは、初恋の相手が「夢で知り合った人物」だった。
当時は夢日記と明晰夢に傾倒していて、夢で起きた体験はかなり鮮明に(現実と変わらないくらいに)記憶していられた。
初恋は高校生の頃。夢の世界で。相手の顔も名前も、まったく記憶に残っていない。覚えていない。たしかに僕は、彼女と出会って一目惚れをしたというのに。
夢のなかで、初恋の人とデートをしていて、僕は「このセカイは夢である」という事実に気づいてしまった。あともう少しで目覚ましのアラームが鳴るであろうことも知っていた。
だから彼女に別れを告げて、最後に名前を聞いた。君の名を教えてほしいと。
彼女は名前を教えてくれた。
決してその名だけは忘れるものかと思った。
目が覚めてすぐに、枕元にあった夢日記を開いて、彼女の名を書き留めようとした。けれど、名前が出てこない。あれほど好きだった彼女の笑顔も、思い出そうとすればするほどに色褪せていった。
夢を忘れてしまうのは、なんて悲しいことだとショックを受けた。
僕が覚えていたのは「大切な人を失った」という事実のみである。
夢を忘れるのが怖い。
夢を忘れたくない。
その恐怖と悲しみが原体験となって、僕は小説を書き始めるようになった。
夢のセカイで出会った人の名前は、記憶していられない。それは実際の明晰夢でも、「君の名は。」の世界でも、共通する掟のようである。
いつも何かを探している。
失い、忘れてしまった、何かとても大切なものを。
それを見つけるための行為が、小説を書くことであり、絵を描くことであり、音楽を奏でることである。
「君の名は。」は綺麗なハッピーエンドで、瀧も三葉も最終的には救われた。しかし、現実に生きる僕は、忘れた記憶を取り戻すことはできない。初恋の人に会うことも。
これからもきっと、僕は小説を書き続ける。忘れてしまった、何かを探して。
映画「君の名は。」で僕が心を動かされたのは、瀧の体験があまりにも自分の実体験と似ていて、なによりも「好きになった人を忘れたくない」という悲痛な叫びが胸に響いたからだ。
僕たちは日常生活のなかで、忘れたことを忘れている。
忘却を忘却していられるから、何事も無く生きていられる。
でも、本当は瀧のように、探さなければならないものなんだ。
見つかるとしても、見つからないとしても。
(了)
このブログと筆者について
当ブログ『Webライターとして生きる』は2016年01月18日に開設された。ここまでブログを続けてこれたのはひとえに読者の皆様のおかげであり、この場で深く感謝を申し上げたい。
【目次】
当ブログの目標
当ブログは、文章を書く《楽しさ》を伝えることを目標としている。もちろん、Webライターとして生計を立てるには、楽しむだけではいけない。記事を書いて収入を得る方法論や、筆力を伸ばす技術論が必要となるだろう。
けれども、僕たちは最初に考えた方が良い。どのような文章を書いたら、自分を幸せにできるのかを。読者について思い悩むのはその先のレベルの話で、マネタイズについて頭を抱えるのはもっともっと先の話だ。
まずは、書く楽しさを見つけよう。僕はブログを通じて、その手助けがしたい。
第一目標:《書く苦痛》からの解放
書く苦しみは大きく2つに分けられる。ひとつは「書きたくないことを書く苦しみ」であり、もうひとつは「書けない苦しみ」である。楽しむためには、両方の苦痛を取り除く必要がある。
自分の書きたくないことを無理矢理に書いて、苦しんでいる人たちがいる。お金のため、生活のため、評価されるため、僕たちは時として自分の意思に反する記事を書いてしまう。良心を捨て、仕事だと割り切り、読者を騙し、自分をも騙す。
僕もかつてはアフィリエイト会社の内勤ライターをしていて、ブラックな記事をたくさん書いてきた。フリーランスとなって独立してからも、良心に反するような記事の制作依頼は数多くあった。
ライターが書きたくもない記事を書くのは、ひとつの悲劇だ。(アフィリエイターでも、ブロガーでも、小説家でも同じである)
書くことで苦しまなければならない理由は、なにひとつない。
僕は「書きたいことを書こう」と強く主張したい。
ともかく、君たちが望むことをやれ。
――だが、その前にまず、望むことのできる人間になれ!
(引用:ニーチェ『ツァラトゥストラ(下)』丘沢静也 訳/光文社古典新訳文庫 p.55)
何のためでもない。書きたいから書く。
君の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的な法則を定める原理としても妥当しうるように行動せよ。(p.89)
われはかく望むがゆえに、かく命ずる。(p.91)
(引用:カント『実践理性批判(1)』中山元 訳/光文社古典新訳文庫)
書くべきことを書く。ただ、それだけである。
しかしこのような理想論を語ったところで「そんなのは綺麗事にすぎない。現実を知らない馬鹿だ」と鼻で笑われる。
理想論を現実論に変えるためには、確固たる《知識》と《技術》が必要である。それを考えていくのが「Webライターとして生きる」を命題とする当ブログの役目である。
第一目標「書く苦しみ」を「書く楽しみ」へ。
第二目標:《書けない苦痛》からの解放
物書きを悩ませるもうひとつは「書けない苦しみ」である。
なかなか思うように書けない苦しさはよく分かる。けれども、プロの物書きだってうまく書けないことを悩んでいるし、そしてうまく書けるよう努力している。だから「私は文才がないのであなたが羨ましいです」と僻んではいけない。他者と比べる前に、自分を磨こう。
文章は技術である。《文彩》は後天的に獲得可能な知識であり、レトリック(修辞技法)を自分のものとすれば、文章はいくらでも上達する。《技》を知れば知るほど、書くことは楽しくなる。
自分の伝えたいことを「より良く」表現するための技法がレトリックだ。身に付けるのは決して小手先のテクニックではない。当ブログでは「楽しく書き、楽しく読ませる」ための、本質的な創作技術論を紹介していきたい。
第ニ目標「書けない苦しみ」を「書く楽しみ」へ。
筆者について
ペンネームは五条ダン(ごじょうだん)。Webライター4年目。なんとか物書き一本で生計を立てられている。
紙媒体では出版経験もなく、まったく有名な人ではない。無名のライターである。まだまだ物書きとしては未熟であり、研鑽を積んでいきたい。
好きな生き物はナメクジ。Who goes slowly goes far.(ゆっくり歩むものが遠くに行く)が座右の銘。
もともと五条ダンは小説投稿用のペンネームで、小説家になろう/カクヨムでは短編小説や長編小説を掲載している。関西圏の文学フリマにも時々出没するので、もし見かけたときは是非お声かけください。
冗談のようなペンネームだけれども「五条ダン」の名前を記憶の片隅にでも覚えていただけたならとても嬉しく思う。
(余談だが、たびたび登場する水色のオバケみたいな何かは《ナメクジオバケ》という名前の当ブログマスコットキャラクターである)
仕事依頼について
当ブログでの記事広告や、五条ダン名義での寄稿依頼等ございましたら、お問い合わせフォームにてお気軽にご相談ください。
ご依頼に基づくWebサービス等の紹介記事につきましては、記事タイトル先頭に【PR】表記をつけ、記事広告であることを明記いたします。また、リンクについてはnofollow設定をいたしますことを予めご了承ください。
大変恐縮ながら、アフィリエイトやSEO等を目的とした匿名記事の代筆につきましては、現在ご依頼をお断り申し上げております。
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連絡先
Twitter(五条ダン/@5jDan)やってます。創作系のツイートがメインです。
フォロー&リムーブはお気軽にどうぞ。
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ブログ記事へのご意見やご感想などございましたら、お気軽にお寄せください。
『Webライターとして生きる』を今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
(五条ダン)
【書評/自己啓発書の楽しみ方】ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。
「僕の人生を変えた◯◯冊の書籍」といったタイトルで、自己啓発書のラインナップをお勧めすると、手斧を持ったはてなブックマーカーがやってくる。彼らは「いい年してそんな本しか読んでいないとは嘆かわしい。低俗な自己啓発書に身をやつしていないで古典文学を読め」と説教をする。
似たようなことをショーペンハウアーも言っていて、彼のほうがさらに毒舌である。次から次へと出版される「凡俗な新刊書」を『毎年無数に孵化するハエのようだ』と形容して、そんな本は投げ捨ててしまえ!とさえ言っている。
詳しくはショーペンハウアー『読書について』(鈴木芳子 訳/光文社古典新訳文庫)を読むといいだろう。創作者には大いに役立つ劇物である。
おっと、大幅に話が逸れた。今回ご紹介するのは『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』(マイク・マクマナス 著)だ。
Amazonには157件のカスタマーレビューが並び、5つ星の絶賛コメントで溢れている。いわゆる、自己啓発書である。
1.自己啓発書はつまらないのか
僕の読書スタイルは「超」雑食で、純文学、海外文学、ライトノベル、ケータイ小説、ボーイズ・ラブ、百合、ありとあらゆる書物を好む。そのなかでも自己啓発書は好きで、一時期中毒になっていた。
もちろん、自己啓発書を読んだからといって、人生が好転したりポジティブ人間になったりはしなかった。本は、そう簡単に人を変えたりはしない。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を三回目に読んだときは流石に何かが変わりそうな気はしたが……。
それでも自己啓発書が面白いのは「読者を変えてやろう」という気概が感じられるからである。実際に読んだ直後はかなり良い気分になれるし、そのように感情を突き動かせるだけで相当な筆力である。
「ソース」は少なくとも、物書きとしては勉強となる部分が多い書籍であった。すなわち、いかにして読者にポジティブな気分になってもらうか、という技術が籠められている。
2.レトリックを受け止める
本作から一箇所のみ、それもまったく重要ではない、何の変哲もない一文を引用してみたい。(できれば下の引用文章を3回ほど繰り返して読んで欲しい)
テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。
(引用:ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。 Kindle版 マイク・マクマナス 著/以下同)
(補足:著者は自宅のテラスを自分の手で作りました。著者は不器用ながらも、大工仕事が好きです)
引用部分だけではわかりにくいかもしれないが、著者は上記のエピソードを通じて「得手不得手を言い訳にせず、やりたいことをやるべきだ!」という教訓を示している。
《抽象的な主張》を《具体的なエピソード》に仮託して、文脈を通じて読者に(暗に)教訓を伝える。このようなレトリックを諷喩(ふうゆ)という。
もっとも、このあとで著者がエピソードに籠めた意味をタネ明かししまくっているので、厳密には諷諭とは言えないかもしれないが、自己啓発書では諷諭がよく用いられる。
自分が作ったテラスの歪みを「まるでラクダの背中のよう」と形容する。これは直喩の技法だ。それにしても、何故ラクダなのだろうか。ヒトコブラクダでもフタコブラクダでも構わないけれども、ラクダの背中は相当にきつい曲線を描いている。
もしも本当に「ラクダの背中のような」テラスを作ってしまったら、それこそ立っているのも難しいだろう。
ゆえに上記の「ラクダの背中のような」の直喩は、歪んでいることをかなり大げさに(オーバーリアクションに)表現している比喩であることが分かる。このようなタイプのレトリックを誇張法と呼ぶ。
誇張法がもたらす効果はユーモアであり、簡単に言えば文章を楽しくさせる。もしも上の引用文章が次のようだったらどうだろう。
テラスはあちこち歪んでいました。お話にならないほどひどい代物です。(改変例文)
ほら、ラクダの比喩が無くなっただけで、随分と文章が暗い感じになるでしょう? ところが、ラクダを間に挟むと、ユーモアが出て明るくなるのです。これが、レトリックの偉大なる効果だ。
自己啓発書は、読者をポジティブな気分にさせることを目的とする。ポジティブにさせるには、笑わせるのが一番だ。笑ってもらうのに、レトリックは大いに役立つ。
引用例文は、読む人をなるべく暗くさせないようにしよう、という「読者への配慮」が見られる。大いに見習いたい。
そろそろくどくなってきたけれども、さらに解説を進める。
(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)
引用例文の丸括弧でくくられた一文。これも立派なレトリックで挿入法という。(ちなみに、丸括弧のことを『パーレン』と書くと、通っぽくてカッコイイ!)
↑ みたいな文章がまさに挿入法で、このレトリックでは文章の流れを一旦せき止める。そしてあまり重要ではない(?)文章を挿し入れることで、文の雰囲気を整えることを目的とする。
例文では、丸括弧の直前にある
お話にならないほどひどい代物です
の一文がけっこう強い言葉で、読者の心証を考えるとバランスを取りたくなる。「ひどい」の形容詞が、ネガティブなイメージを無意識化に与えてしまうかもしれない。
そこで「ひどい」を中和する語句として「笑い」を入れておきたい。すべては読者をポジティブにさせるためである。
もう一度、引用例文を眺めて欲しい。
テラスはあちこちゆがんで、まるでラクダの背中のようでした。お話にならないほどひどい代物です(大工仕事が得意な人が見れば、腹を抱えて笑うかもしれません)。
読者のことが考えられた、よくできた文章である。
「歪んだテラス」と「ラクダの背中」
「お話にならないほどひどい代物」と「腹を抱えて笑う」
ネガティブなイメージとポジティブなユーモアが見事に調和し、文章全体としてバランスが保たれているのが分かるだろう。
自己啓発書を馬鹿にする人は、自己啓発書が「読者を良い気持ちにさせよう」とする技術と執念の力を甘くみている。ここで挙げた例文は、たまたま目についたふつうの一文に過ぎない。
3.速読では見つけられない面白さ
悲しいことに、自己啓発書はパラパラーっと流し読みにされることが多く、精読される機会は少ない(かもしれない)。
世の中には、本を早く読もう!をモットーとする『速読術』が溢れている。速読も役立つことはあろうし、否定はしない。
でも、立ち止まらなければ見つけられない面白さが、読書には存在する。自己啓発書に限らず、純文学でもケータイ小説でも、虫眼鏡で観察するようにして文章を読んでいくと興味深い発見が多い。
僕はこれを『ミクロの読書術』と呼んでいる。文章を扱う仕事を目指す人は、ぜひミクロの読書術を試してみて欲しい。「木を見て森を見ず」と言われるけれど、ときには「葉の細胞」を見ることが役立つこともある。
4.結局、書評はどうなったの?
タイトルに『書評』と書いておきながら、未だに内容に関する記載がない。だが、僕が今この瞬間、この文章を書いているのは、まさに本書を読んだからに他ならない。
『ソース~あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』
タイトルのとおり、著者の主張は首尾一貫している。
つまり、自分のワクワクすることを今すぐ実行せよ!ということである。
僕は本を読んで、文章のレトリックを解析することが何よりもワクワクする。自分の発見したことをブログに綴るのは、もっとワクワクする。
今こうして文章を書いていることそのものが、本書に影響を受けた何よりの証拠で、これをもって書評とさせていただきたい。
(終わり)
※2016年9月1日現在は、Amazon Kindle Unlimited の対象本となっています。
依頼の受発注時に警戒すべき3つの心理テクニック
世の中には「人を思い通りに動かす」ための心理テクニックが溢れている。正直なところ、そのような下心をあからさまに押し出したタイトルの書籍を売るのはいかがなものかと眉をしかめる。本屋に並べられているところを見ると、需要はあるのだろう。
この記事では、仕事の受発注時に警戒しておいた方が良い4つの心理テクニックについて紹介したい。僕はWebライターをしているから、例に用いるのはWebライティング案件の委託受注に関するものが多い。
1.返報性の原理
返報性の原理(へんぽうせいのげんり)はすでにご存知の方も多いだろう。知名度がとても高い心理的原理だ。人は何らかの好意を受け取ると、そのお返しがしたくなってしまう。
試食品や無料サンプルなどで、まずは無償の《好意》を与える。スーパーの試食品コーナーに行くと特にそうなんだけれど「ただで味見させてもらったんだから、1個くらいは買っておこうかな」という気持ちになる。
返報性の原理は「海老で鯛を釣る」手法として、マーケティングでは幅広く用いられる。車の試乗だとか、記念品のプレゼントだとか、無料見積もりに無料相談会に無料査定などなど、たくさんある。
とにかく、何らかの「見返り」を求めて相手に好意をふりまくのが、この戦略のポイントである。
ここだけの話(今もやっているかどうか知らないが)アフィリエイターやブロガー向けのセミナーに行くと「返報性の原理」の言葉を耳にする。つまり「はてなブックマークを使っているブロガーさんを見つけたら、積極的に相手の記事をブクマしたりTwitterでシェアしたりポジティブなコメントをつけて、恩を売っておきましょう。そうすると返報性の原理が働いて、自分の記事にもお返しシェアやお返しブクマが集まりますよ」とセミナーでは語られる。
かれこれ2年ほど前の話なのだが、今もセミナーはあるのだろうか。互助会を一緒くたに批難するつもりはないが、見返り前提のブクマには首を傾げざるを得ない。
依頼者側が、ライターやイラストレーターに「返報性の原理」を使おうと思えば、とくにコストは必要とならない。なぜならば、承認欲求を満たしてやりさえすればそれが《施し》となるからだ。(ひどい話だが、このように考える人もいる)
悪筆なので上のイラストの、緑色のカニが何を話しているか読めなかったら申し訳ない。とにかく……
- あなたはとても素晴らしい、誠実な方です
- あなたのような素敵な方と一緒にお仕事ができたら、どれほど幸せか
- 圧倒的な文才! 迸るセンス! 芸術的な絵柄だ!
- あなたほどの優秀な人材を野放しにしておくのは勿体無い
みたいな感じで、とにかく褒め殺しにする。僕のような小説新人賞万年一次落ちの三文文士ワナビなんかは、褒め慣れていない。だから少し褒められると鼻が天狗になって、ほいほい相手の口車に乗せられてしまう。
セールスマンでも宗教勧誘でも「褒め上手」の人が相手だと、ついつい引っかかってしまう。
もちろん(この記事で誤解を与えなければ良いのだが)本心から褒めてくれる人、見返り目的でなく純粋に僕を評価してくださる依頼主さん、クライアントさんはいらっしゃる。本当に嬉しく思うし、心から感謝している。
だけれども、初対面でお互いのこともよく知らないのに、初っ端からやたらめったらと褒め殺しにしてくる人もいる。そのような相手とビジネスをして、良い結末を迎えたことがほとんどない。
「正当な理由がないのにむやみやたらと褒めてくる相手」を僕は一番警戒している。自分を理解してくれる都合の良い人間は、そうそう簡単に現れたりしない。そんな甘い話はない。
「下手に褒めると警戒される」というのも、頭の片隅に覚えておくと良いかもしれない。なにせ「返報性の原理」は広く知れ渡っているので、当然相手方も知っている可能性が高い。甘い言葉には裏があるんじゃないか……と警戒心を与えてしまうくらいであれば、お世辞はそこそこに本音でぶつかっていった方が良い。
《返報性の原理》は言われるほど使い勝手の良いテクニックではない。使う方も使われる方も、注意が必要だ。
2.ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック
ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックとは、まず相手に無茶な要求を突きつけておいて「あえて断らせてから」次にもう少しマシな要求(こちらが本命)を提示し、条件を受け入れさせるテクニックである。
例えば、
依頼主「1文字単価0.1円で記事書けますか?」
ライター「申し訳ありませんがお引き受けいたしかねます」
依頼主「じゃあ、0.5円でどうですか。お願いします!」
ライター(うーん…本当なら断るところだけれど、せっかく5倍まで単価上げて譲歩してもらったし、2連続では断りづらい……)「わかりました。その条件で承ります」
といった感じに話をもっていく。人間は直前に提示された条件に引きずられてしまう(アンカリング効果)から、最初に高い要求を突きつけられると、価値判断能力が麻痺してしまう。
かくいう僕も、露店で呼び止められて「お客さんラッキーですねぇ。この腕時計、本当は1万円なんだけど、今は閉店セールで大特価90%OFF!! 1000円で売ってあげます」とセールスされた。
ぱっと見、高級そうな腕時計に見えて(わあいラッキー!!)と思った僕は「ホントですか! なら5本ください!!」と見事に乗せられてしまった。もちろんその時計はブランドでも何でもないパチもんみたいな奴で、300円の価値があるかさえ怪しい。
おっと話が逸れた。ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはこのようなパターンもある。
依頼主「ところで明日までに納品をお願いしたいのですが」
ライター「いや…さすがにそれは急過ぎて、難しいです……」
依頼主「うーん、なら3日後でどうですかね」
ライター(ふぇぇ…この作業量なら1週間は最低でも欲しいのだけれど、相手も譲歩してくれたしこちらも多少は譲歩しなければ……)「わかりました。その条件で承ります」
そう、このテクニックは「相手にわざと断らせてから、(本命の)譲歩の案を提示する。すると《譲歩》に対する返報性の原理が働いて、相手も条件を飲んでくれる」という心理に基づくものだ。
良さげな心理テクだが、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックにはひとつだけ致命的な欠点がある。
そもそも論として、初手で「相手に無茶な要求を突き付ける」という行為そのものが、相手にかなりの悪印象を与えてしまうのである。
依頼主「1文字単価0.1円で記事を書いてくれますか?」
ライター(ひぇぇ…多分関わったらマズイことになるブラッククライアントや…)「お断りします」
依頼主「なら0.5円で…」
ライター(関わらないのが得策やで…)「お断りします」
と、このようになる。これは警戒されて当然である。
ライター側の心得としては「1文字◯◯円を下回る仕事は絶対に受けない」とルールを決めておくと良いだろう。
3.ローボール・テクニック
ローボール・テクニックとは、最初に相手の受け入れやすい欲求を提示して、ひとまずの承諾を得る。その次に相手にとって不利な条件を(後出しジャンケン的に出して)欲求を飲み込ませる、えげつない心理テクである。
具体例を挙げてみよう。
依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」
ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」
依頼主「あ、原稿を書くついでに、見出しタグと強調タグとリストタグのマークアップをお願いしたいのですが」
ライター「分かりましたー!」
依頼主「良かった。あとついでに、記事のアイキャッチ画像もご用意いただけますか。フリー写真サイトから探してくだされば構わないので」
ライター「え…あ……はい」(もう仕事承諾してるし断りづらいな)
依頼主「それから、ここの部分は取材が必要となるので、取材についても込みでお願いしたいのですが」
ライター「……は、はい……」(ひぇぇ、ホワイト案件だと思ったらブラックだったよぉ)
別のパターンも見ておこう。
依頼主「1文字単価xx円で記事を書いてくれますか?」
ライター(相場よりちょっと良い単価やな。ありがてぇ)「ぜひ承ります!!」
依頼主「ところでライターさん、Twitterアカウントとフェイスブックアカウントをお持ちでしたよね」
ライター「ええ持ってますよ」
依頼主「良かった。記事公開の際にご連絡差し上げますので、ついでにTwitterとフェイスブックの方でもシェアをよろしくお願いいたします」
ライター「えぇ……」
いずれの事例にせよ、すでに仕事を承諾したあとだと、後出しで不利な条件を出されたとき(雰囲気的に)なかなか断りづらくなる。
これは「コミットメントと一貫性の原理」が働くからだ。最初に「やります!」とコミット(約束)をすると、そのあとはコミットに対して一貫した態度・行動を取ろうと努力したくなる。
だから後付けで仕事の負荷を増やされても、そうそう首を横には振れない。
やられる側の対処法としては「とにかく安請け合いをしないこと」契約をする前に、どこからどこまでが業務範囲となるのか、しっかり詰めておく。それまではYESと言わない。
仮に、先に承諾をしてしまったのであれば、依頼主から追加要求を出された際に、こちらも追加料金を要求する。Webライターをしていると、ローボール・テクニックを使った依頼案件には引っかかる機会がけっこうあるので、注意されたし。
まとめ
「返報性の原理」「ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック」「ローボール・テクニック」はすべて、相手の感情・心理的作用に働きかける。
だから、仕事を引き受けるかどうかを「その場の感情」によって決定していると、相手の術中に嵌りやすい。自分の直感を信じよ!なんてビジネス書もあるけれど、契約の場で直感に頼るのは大変危うい。(人の心には容易く干渉できる)
だから「1記事◯◯円以上の仕事は受ける」「対応する範囲は◯◯まで」と明確なルールを予め設定しておくことをおすすめしたい。
追記しておくと、これらのテクニックが通用するのは「知識の非対称性」がある場合のみである。(あっこれはローボール・テクニックを使ってきてるな!)と相手側に見抜かれてしまえば、テクニックを使った側は信頼を落としてしまうことに繋がる。
今の時代、心理テクニックのノウハウ本なんて、そこらにゴロゴロ出回っている。「自分の知っていることは、相手もきっと知っている」と警戒して交渉に臨んだ方が、無難だろう。
僕としては、あまり心理テクニックに頼るのは推奨できない。本当にそのようなテクニックが万人に自在に扱えるものだとしたら、僕は今ごろモテモテのハーレムを手に入れているに違いないのだから。
(終わり)
後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない
アフィリエイトで成功するために、何よりも大切にしなければならないのは「己の良心」である。この一言に尽きる。お金を儲けるのは大いに良いことであるし、僕だって札束を扇子代わりにする生活には憧れている。
しかし、金のために良心を売り渡してしまってはいけない。
(どこぞと知れぬWebライターが綺麗事と理想論をほざいてやがるぜ…)と思われるかもしれないが、至って本気である。そもそも僕たちは、いつかかならず死ぬのだ。未来の成功とやらのために、今この瞬間の《生》を犠牲にしてどうする。
「自分が今ここに生きていること」を肯定できないような、後ろめたい行為はすべきではない。何度でも言う。
アフィリエイトでは何をやるべきなのか?
アフィリエイトサイトを作るうえでやるべきことは、すべて「~ない」という否定形で示せる。以下に箇条書きにする。
- 嘘をつかない
- 読者を騙さない
- 口コミや体験談を捏造しない
- 科学的根拠を捏造しない
- 薬機法(薬事法)に反する記事を書かない
- 公序良俗に反する記事を書かない
- 著作権や肖像権を侵害しない
- その他法令や社会的倫理に反する記事を書かない
- 読者の不安や怒りを煽って、誘導するようなことはしない
- ステマはしない
- 不当に(外注する)記事を買い叩かない
- ブラックハットSEOをしない
- ネガティブSEOをしない
- 他者への誹謗中傷をしない、悪口を書かない
- 他サイトを不当に貶めることで優位に立とうとしない
- 競合商品を不当に貶めることで商品を売りつけようとしない
- 夜中にこっそりリスティング禁止の案件を乗っけたりしない
- 売りたくもない商品を無理やり売ろうとしない
- 誤クリックを狙わない
- 過激なタイトルで釣ろうとしない
- 自分の良心に反するような記事は書かない
どれも当たり前のことばかりなのだけれど、その「当たり前」がいかに困難であり、貴重であるのかを僕はよく知っている。せっかくウェブサイトを作るだけの技術と知識があるのだから(社会貢献せよとは言わないが)自分が心から満足して幸せな気持ちになれるような、良いサイトを目指してほしい。
もう少しぶっちゃけた話
「稼ぐために手段は選ばない!」と本気で思うのであれば、ブラックな方法でサイトを作るのはなおさら得策ではない。想定が、甘い。なぜならば、競合する他者もまた「稼ぐために手段は選ばない」からである。
ネガティブSEOで低品質なリンクを相手に押し付けるよりも、はるかに簡単に確実に、競合を検索結果から蹴落とす方法がある。相手が、後ろめたい記事を書いているのであれば。
「◯◯サプリで◯◯病が治ります!」みたいな露骨な薬機法違反をやっているアフィリエイトサイトは、それこそ弱点丸出しの状態であり「どうぞASPと広告主に通報してください」とはらわたを晒しているのと同じである。
記事をリライトして検索順位を上げるよりも、相手をぶっ飛ばして順位を上げる方が簡単だ。そのような(自サイトよりも上位にあるブラックサイトを潰すことによって)自分の検索順位を上げようと企てる、アフィリエイターはそれなりにいる。
健康サプリ案件だと、やはり薬機法違反で攻めやすい。他のジャンルだと、著作権違反もわかりやすい。(あっ、この記事はあのサイトのパクリだ!)というのは、そのジャンルについて精通するアフィリエイターが見れば容易に見抜ける。
そのような弱みのあるサイトが競合であった場合、まずはサイトに記載されている連絡先にメールでコンタクトを取る。記事の問題点を指摘し、修正か撤回を求める。
多くの相手は記事の「削除」を選択する。記事が消えてくれれば、こちらの検索順位は(おそらく)ひとつ上にあがることだろう。
メールへの返信はさまざま。「外注したライターが書いたもので、チェックができていませんでした」と言い訳される場合もあれば、「共同運営のサイトで私が書いた記事ではないのですが、たしかにおっしゃるとおりですね。消しました」と謎の責任逃れをされる場合もある。返信はなく、しれっと記事だけ消されることも。
いずれにせよ、相手には後ろめたい感情がある。だから、競合記事は消される運命を辿る。
僕は、他者には甘い。だから(よっぽど悪質な奴を除いては)ASPに通報したりはしない。まずは、メールでコンタクトを取るようにしている。(ばんばん通報してやるぜ!!と好戦的なアフィリエイターさんもいます。もちろん)
PCデポの騒ぎのように、不誠実なビジネスを続けていれば、いつかはしっぺ返しを受ける。基本的に、アフィリエイターさん同士は仲が良いし「ライバルを蹴落としてやるぜ!」というよりかは「情報交換し合って共に儲けよう!」といった健全なコミュニティが形成されている。
しかし、仲間を大切にすることと、他者に甘いこととは話が違う。自分よりも検索上位にある競合サイトが、明らかに悪いことをしている。そりゃあもう、見逃している場合ではないでしょう。格好の標的です。
だから、何度も何度も繰り返す。後ろめたいアフィリエイトサイトを作ってはいけない。自分の良心を信じて、良いサイトを作ろう。
(終わり)