Webライターとして生きる

五条ダンのブログ。「楽しく書く」ための実践的方法論を研究する。

挫折、敗北、失敗、虚無感、悲しみ、およそこれらの絶望についての話

仕事やプライベートでつらいことが続き、キーボードは一打鍵が鉛のように重く、筆はナメクジが這うよりも進まない。顔が濡れ、愛と勇気を失い、そのうえジャムおじさんとバタコさんから見捨てられたアンパンマンのごとく、生きる力が根こそぎ奪われている。

3年間にわたり仕事として引き受けてきた、あるプロジェクトがご破算となった。

これまで私が設計・運営に携わった数十のウェブサイトが消えた。書いてきた数百の記事コンテンツが消えた。海の藻屑となって消えてしまった。跡形もなく消えてしまった。

よくあることだし、これ自体が悲しみの原因というわけでもない。ただ、「このサイトにアクセスできません(ERR_NAME_NOT_RESOLVED)」の真っ白な画面を眺めていたら、操り人形の糸がプツンと切れる音がした。

〆切に追われて胃をキリキリと痛めた日々だとか、理不尽な修正指示に耐え続けた結果が、この真っ白な《無》だったというだけだ。特段珍しいことではないし、過去に経験がないわけでもない。

ただなんというか、私はまだ就職活動での失敗を引きずっているのだと思った。内定を得ることは、学生が社会人になるための通過儀礼である。イニシエーションを乗り越えられなかった若者は周囲から見下されるし、良くても憐れまれる。

就活で失敗をすると、他者から認められること、社会人として評価されることのハードルがものすごく上がってしまう。

しばしば「就活をやめてプロブロガーになります!」「新卒でフリーランスになります!」とブログで宣言した人が、はてなブックマークのコメントでこてんぱんに叩かれているが、本人としては相当に辛いのではないか。

彼らの多くがおそらくは「サラリーマンにならなかった」わけではなく「サラリーマンになれなかった」のであり、自ら好んでレールを外れたというよりは、やむなくレールを外れざるを得なかったのだろうから。

もっとも、このあたりの恨み嫉みを述べるとそれはただのルサンチマンであるし、精神的に健全であるとは言えない。

なんにせよ、成功体験を積み上げられない挫折続きの人生では、自己肯定感を育むことができず、危ういことになる。

恨み、憎しみ、わななき、怖れ、止むなくもつらき労働の冬は、

今し、ふたたび、わが身のうちに、帰り来らんとし、

北極の地獄に落ちし太陽に似て、わが心は、

凍りたる赤色の、一塊に過ぎざらんとす。

 

(引用:「ボードレール詩集」秋の歌より抜粋/堀口大學 訳/1951年 新潮文庫 p.75)

デカダンス(退廃主義)は芸術に昇華できるのなら美しく人の心を打つ。しかし昇華できないのなら朽ち果てたカラスの死骸も同然である。虚無や絶望に酔いしれ、溺れないようにしたい。

 

高校バドミントン部を題材としたスポーツ漫画「はねバド!」では、主人公が他者に対してリスペクトを持てずに悩むシーンが描かれる。

主人公の悩みに対してコーチは、本人が他者へのリスペクトが持てないと言うのならば、無理にリスペクトを持たせることに意味はない、と考える。

その上で「競技そのものに対してリスペクトを持て」とアドバイスをする。バドミントンが好きで、バドミントンそのものにリスペクトが持てるようになれば、やがてはバドミントンに携わるすべての人を愛せるようになるだろう、と。

これは自己肯定感が欠如する人にも同じことが言える。自分で自分を認められない、信じられない、好きになれない。肯定できない。

そんなときは、自己からひとまず目を離して、愛するものに目を向けたい。

私は自分の書くものには自信が持てないが、創作そのものを愛している。

失敗や挫折が重なり、自己嫌悪と自己不信が渦巻くなか、たとえ自分を信じることができなくとも、自分が心から愛するものに目を向け、その愛する気持ちと、それを愛する自分を信じて、前に進みたい。

(了)


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